俳句を始めたのは35歳の頃。いつだって、自分の句との出会いが待ち遠しい。|池田澄子

新・家の履歴書 第787回

山田 由佳
ライフ ライフスタイル

(いけだすみこ 俳人。1936(昭和11)年、神奈川県鎌倉生まれ。35歳のときに俳句に出会う。三橋敏雄に師事。句集に『空の庭』(現代俳句協会賞)、『たましいの話』(宗左近俳句大賞)、『此処』(読売文学賞詩歌俳句賞、俳句四季大賞)など。最新刊はエッセイ集『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)。)

 

「え!? なんでこんな句を書いちゃったの?」って、自分でびっくりするような句に出会いたい。私が俳句を作り続けるのはそう思っているからなの。なかなかびっくりはできないけどね(笑)。

 私を「書きたい人」にしたのは、戦病死した父。父を失った悔しさがなかったら、私の人間性も人生も違っていたでしょうね。

「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」「前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル」などの句で知られる池田澄子さん。1936年(昭和11年)、神奈川県鎌倉で、産婦人科医の父と専業主婦の母の、長女として生まれた。

 私の生後最初の記憶は、家の縁側から庭を眺めていたときのこと。大きな赤い庭石が雨に打たれているのを見て、「石が濡れて可哀想」と思って泣いたの。庭や縁側、和室の様子を鮮やかに覚えてます。幼少の頃は転居を繰り返したので、大人になってから母に、こういう庭と間取りの家はいつ住んでいた家かと聞いたんです。すると私が満1歳になる直前まで住んでいた東京杉並の家だって、母がびっくりしてました。その間取りの家の庭に、新潟県佐渡市で採れる佐渡赤石、その庭石が確かにあったって。

 1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、父は応召、当時「中支」と呼ばれていた中国の華中に召集されました。このときは翌年に応召が解除されて帰国。いろいろありながら、真珠湾攻撃が起こる1941年(昭和16年)、漸く東京荒川区に産婦人科と内科が専門の医院を開業しました。

 でも父は再び応召、宮城県玉浦村東部111部隊に医師として配属されました。そのため開業したばかりの医院をたった5カ月で閉めて、人手に渡さざるを得なくなった。随分と残念だったでしょう。

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source : 週刊文春 2022年6月30日号

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