(いけだすみこ 俳人。1936(昭和11)年、神奈川県鎌倉生まれ。35歳のときに俳句に出会う。三橋敏雄に師事。句集に『空の庭』(現代俳句協会賞)、『たましいの話』(宗左近俳句大賞)、『此処』(読売文学賞詩歌俳句賞、俳句四季大賞)など。最新刊はエッセイ集『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)。)
「え!? なんでこんな句を書いちゃったの?」って、自分でびっくりするような句に出会いたい。私が俳句を作り続けるのはそう思っているからなの。なかなかびっくりはできないけどね(笑)。
私を「書きたい人」にしたのは、戦病死した父。父を失った悔しさがなかったら、私の人間性も人生も違っていたでしょうね。
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」「前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル」などの句で知られる池田澄子さん。1936年(昭和11年)、神奈川県鎌倉で、産婦人科医の父と専業主婦の母の、長女として生まれた。
私の生後最初の記憶は、家の縁側から庭を眺めていたときのこと。大きな赤い庭石が雨に打たれているのを見て、「石が濡れて可哀想」と思って泣いたの。庭や縁側、和室の様子を鮮やかに覚えてます。幼少の頃は転居を繰り返したので、大人になってから母に、こういう庭と間取りの家はいつ住んでいた家かと聞いたんです。すると私が満1歳になる直前まで住んでいた東京杉並の家だって、母がびっくりしてました。その間取りの家の庭に、新潟県佐渡市で採れる佐渡赤石、その庭石が確かにあったって。
1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、父は応召、当時「中支」と呼ばれていた中国の華中に召集されました。このときは翌年に応召が解除されて帰国。いろいろありながら、真珠湾攻撃が起こる1941年(昭和16年)、漸く東京荒川区に産婦人科と内科が専門の医院を開業しました。
でも父は再び応召、宮城県玉浦村東部111部隊に医師として配属されました。そのため開業したばかりの医院をたった5カ月で閉めて、人手に渡さざるを得なくなった。随分と残念だったでしょう。
初回登録は初月300円で
この続きが読めます。
有料会員になると、
全ての記事が読み放題
コメント機能も使えます
キャンペーン終了まで
-
月額プラン
1カ月更新
2,200円/月
初回登録は初月300円
-
年額プラン
22,000円一括払い・1年更新
1,833円/月
-
3年プラン
59,400円一括払い、3年更新
1,650円/月
オススメ!期間限定
既に有料会員の方はログインして続きを読む
※オンライン書店「Fujisan.co.jp」限定で「電子版+雑誌プラン」がございます。ご希望の方はこちらからお申し込みください。
有料会員になると…
世の中を揺るがすスクープが雑誌発売日の1日前に読める!
- スクープ記事をいち早く読める
- 電子版オリジナル記事が読める
- 解説番組が視聴できる
- 会員限定ニュースレターが読める
source : 週刊文春 2022年6月30日号