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《待つ》という行為をはじめて文学的、哲学的に思考したのは、2020年秋に舞台で三島由紀夫の「班女」を演じたときだ。恋心を寄せる男性が迎えに来るのを待ち続けてとうとう狂ってしまった花子という女性を演じたが、結局このとき彼女を、この作品を貫く《待つ》の正体を、わかりあぐねたまま終わってしまった。
『「待つ」ということ』(鷲田清一 角川選書 1400円+税)という本は、あるお仕事で参考資料としていただいたものだ。今やっと、私の追い求めていた《待つ》行為について、深く知ることができるかもしれない。花子についての考察を軸に読み進めた。
花子は物語の最後、ついに自分を迎えにきた男性を、かつて待ち望んでいた相手だとは思わずに拒絶する。そして再び待ち続けることを選ぶ。つまり最後に、待ち望んでいたはずの“その時”の永遠の喪失、また、永遠に“待つ”ことを獲得したかたちだ。狂女として描かれたのは、彼女がもう此岸に足をつけていなかったからかもしれない。待つという彼岸に立ち、誰も到着することのできない境地にいたのか。
彼女の《待つ》かたちは、不在の相手に対して向かうものではなく、不在が編み込まれた日々を営むことで、「だれかに向けて祈るのでもなければ、何かの訪れを祈るのでもない、そもそも何を祈っているのかさえさだかでないような『祈り』」として、現象したのではないか。花子は待ちながら、待つということの不可能性をすでに孕んでいて、過去、現在、未来という時の秩序から離脱した彼女の態勢は、「〜を待つ」という前のめりの構えではなく、ただ静かに、そこに立ち尽くすしかないような姿勢である気がする。
著者によれば「〈時〉の喪失のなかでこそ、何を待つでもない〈待つ〉がなりたつ」。それは「機械のような時間のうちにじぶんを無理やり封じ込める」ことで、期待と失望の浮き沈みを抑え込み、精神をまるで無感覚のような状態に置くなかで、なりたっているという。
花子の場合そうではなく、毎日期待しては絶望し、感情は大きな振り子のように激動していた。ということは、その感情の揺らぎさえも、日々の機械的な時間にねじ込まれていたということか? 同じ振れ幅を保ち続ける振り子とは、それ自体が機械ではないか。それとも彼女はその彼岸の退屈に抗っていたのだろうか。
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source : 週刊文春 2022年9月29日号