(ふじいしょうぞう 中国文学者。1952(昭和27)年、東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授、名古屋外国語大学外国語学部中国語学科教授。主な著書に『魯迅と日本文学』『村上春樹と魯迅そして中国』。魯迅『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫)等、翻訳も多く手がける。)

 

 私の父が福岡県小倉市立小倉商業学校を卒業した1933年、日本は大変な不景気でした。そこで父は建国されたばかりの「満州国」(現在の中国東北地方)へ渡ろうと思い、いろんな会社に手紙を出しました。当時、そんな方法で就職活動をする学生は珍しかったらしく、旅順の矢幡商会という商社に採用されました。母はその矢幡商会の店主の姪でした。母方の祖父は、日本の植民地だった朝鮮で鉄工所を開いていました。母は平壌高等女学校卒業後、店主の家に預けられ行儀見習いをしていたんです。

 1938年、父はのちの国鉄総裁として知られる十河(そごう)信二が社長を務める興中公司という国策会社に転職しました。母と結婚したのはその翌年です。新婚旅行で訪れた北京を父は絶賛していました。「北京の柳並木の美しさに比べたら銀座の柳はみすぼらしい」というのが口癖でした。父の思い出話が、私の中国に対する興味の原点になっています。

 日本における近現代中国文学研究の第一人者である藤井省三さんは、1952年11月15日、東京都品川区大井で生まれた。姉と2人の兄がいた。

 私は戸籍上では六男になっています。実は姉の上と下にあと兄弟が3人いましたが、太平洋戦争中から戦後にかけて、相次いで病死したんです。父は復員後、知人の紹介で、東京の日興商会という建築会社に就職しました。そして、日興商会で開発した木煉瓦舗装の技術を活かして、1952年6月に独立したんです。父の会社は協和産業株式会社という社名で、「満州国」の建国理念の「五族協和」からとっています。日本が戦争に負けて、「満州国」がなくなっても、五つの民族が協調して暮らせる国を作ろうという理念を、父は真面目に信じていました。

 最初の家の思い出はほとんどありません。1階をオフィスとして使っていたしもた屋の2階で寝ていたら、父が進軍ラッパの口真似をして起こされたことだけ覚えています。

 事業が軌道に乗り、しもた屋では手狭になったのでしょう。父は大田区馬込に百坪くらいの土地を購入して、社屋とは別に自宅を建てました。

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source : 週刊文春 2022年10月6日号