バブルへ突入してゆく85年に、ジュリーは「キチッと誠実に仕事をする」会社を立ち上げた。新たなバンドメンバーと共にもがく日々に訪れた、渡辺プロ総帥・渡辺晋の死――。
1985年9月21日、独立第一弾にして通算22作目となる沢田研二のアルバム「架空のオペラ」が、東芝EMIから発売された。翌日の22日、日本、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの先進5カ国の蔵相、中央銀行総裁がドル高是正のために協調行動で合意。通称プラザ合意が結ばれて、1日で1ドル235円が20円下落して円高が一気に進み、日本は狂乱のバブルへ突入していくのである。
現在、韓国や中国の企業の広告が占拠するニューヨークのマディソンスクエアガーデンを、日本企業のそれが埋めつくそうという時期に、沢田研二は「いつもキチッと誠実に仕事をしていこう」と名付けた事務所ココロを船に、新しい航海へと乗り出した。独立後初のコンサートツアーを終えた秋には、事務所と同じ名前のバンド、CO-CóLOを結成する。「架空のオペラ」のレコーディングとツアーのメンバーは急遽集めたので、いよいよジュリーのバックバンドを作らねばならなかった。
CO-CóLOのリーダーとなるチト河内は、沢田研二のプロデューサー、大輪茂男から誘われて、「架空のオペラ」の時からジュリーのバックでドラムを叩いていた。チトが、回想する。
「あのツアーは大変でしたよ。舞台に毎回、滝のような雨を降らせるものだから、必ず消防署が来るんです。都市ごとに消防署と掛け合って、スタッフは苦労したと思います。でも、みんな、新しいものを出そうと張り切っていましたよね。ジュリーの意気込みは凄かったです。静かなんですよ。彼は、普段はこんなに静かなんだと思うくらい静かなんです。でも、ステージに立つと豹変しますから。それが本物じゃないですか」
ドンジャンのメンバーと
沢田より5歳上、43年生まれで、60年のキャリアを持つ音楽家は、中島みゆきやちあきなおみなど広いジャンルで仕事をしてきて、ジュリーとも古くからの顔なじみであった。グループサウンズの熱狂が吹き荒れた時代、チトのいたザ・ハプニングス・フォーはザ・タイガースと同じ渡辺プロダクションの所属で、マネージャーが同じ中井國二だった。チトと兄のクニ河内は、タイガースの曲の編曲も手掛けている。
「その時から、彼は輝いてましたよね。GSにはスターという人が目白押しでいたんですけど、言うまでもなく断トツに光っていた。ビジュアル面だけでなく、総合的に光ってたんです。リズム感? 歌の休拍のとり方とかに特別なもの、プラスアルファのものを持ってましたから、この人はうまく、極上の歌い手になると思ってました」
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source : 週刊文春 2022年12月29日号