「平成最後の」という言葉が溢れる昨今だが、平成最後のイベントがもうすぐ近づいてくる。世界最大の同人誌即売会であるコミックマーケット(コミケ)がそれだ。
1975年に貸会議室の一室で32のサークルが出展して開かれたこのイベントも、今や東京ビッグサイトを全館使い、年2回の開催で延べ100万人以上が集まる大イベントになっている。そんなコミケも平成の始まりからトラブルに見舞われ、大きな危機を迎えている。平成最後のコミケを29日に控えた今、拡大と逆境にあった平成のコミケを振り返ってみよう。
平成最初のコミケから嵐の船出
平成に入った頃のコミケは、まさに「拡大」と「逆境」の最中にあったと言えるだろう。昭和末期から急増するサークル参加者や一般参加者に対し、会場のキャパシティが追いつかず、多くのサークルの参加を断ったり、複数日開催が始まるなどの施策が取られた。
しかし、当時は空前のバブル景気。企業も多くの展示会を行っており、現在よりはるかに貧弱な展示会場事情と相まって、会場を取り合う事態になっていた。事実、昭和最後のコミケになるはずだったC35(※コミケは第1回からの通し番号で表記される)は会場を確保できず、翌年春に開催され、これが平成最初のコミケとなった。平成のコミケは最初から嵐の船出だったのだ。
宮崎勤事件で注目が集まる
平成最初のコミケとなったC35は、他でも大きな話題を呼ぶことになる。昭和末期から平成初頭の日本を震撼させた、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚がサークル参加していたのだ。この時、既に宮崎は3人の女児を誘拐・殺害し、今田勇子名義の犯行声明を出している。8月に開催されたC36では、開催3日前に宮崎が自供を始めたことが報じられたため、マスコミの注目を集める結果となった。
この時のコミケ報道はどういったものだったか。筆者の調べでは、この頃「週刊文春」も初めてコミケを取り上げている。「ロリコン五万人 戦慄の実態 あなたの娘は大丈夫か」(1989年8月31日号)にて、コミケ関係者の言葉として参加者を「宮崎のクローンみたいな連中」と伝えている。大手週刊誌でこの論調なのだから、他のメディアの論調は推して知るべしだろう。