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「両親や、外見、体型などを自分で選択できない」「努力をしてもむくわれない」五木寛之が語る自分の“運命”との向き合い方

『選ぶ力』より#1

2021/12/21

source : 文春新書

genre : ライフ, 読書, ライフスタイル

note

人にあたえられた資質とは

 ここであらためて思うのだが、そもそも人にあたえられた資質とは、一体なんなのか。

 人はそれぞれ全くちがう資質をもって生まれてくる。誕生する時間から格差はあるのだ。

 いや、すでにその前からさまざまな差異の中に人は生まれてくる。そこには当人の努力とか、誠意とか、情熱とか、愛とか、そんなものは全くはいりこむ余地がない。

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 私はアジア人の一人として九州に生まれた。体力や運動神経にもめぐまれず、努力が苦手な痩せ型の少年として育った。数学も、外国語も不得意で、本を早く読むことだけがとりえだった。両親は九州の山村の出身で、ともに学校教師だった。ものごころついた時には、かつての日本帝国の植民地に暮していた。

 そのどれも自分で選んだことではない。すべては、どこからかあたえられた形で受けとっただけである。戦国時代に生まれたかったと口惜しがっても、仕方がないのである。その仕方がない、ということに対して一体どう考えればよいのか。

 私たちはさまざまなものを選ぶことができる。モノを選び、人間関係を選び、職業を選び、配偶者を選ぶ。その限りにおいては自由な人間である。

 自由とは現在の私たちにとって、なによりも大切なものだ。基本的人権として尊重されるのが自由である。

 しかし、現実には完全な自由などどこにもない。

 私たちは望めば国籍を捨てることも、選ぶこともできる。それなりの制限があるのは当然だが、決して不可能なことではない。

 しかし、私が仮りに日本人であることを放棄したとしても、アジア人であり、もともと日本人であったことを変えることはできない。

 筋肉はトレーニングすれば変えることができる。かなり短期間で痩せ型の友人が、筋肉隆々のマッチョに変身したことに驚かされたこともあった。しかし、彼の身長は以前のままだった。目下のところ身長をのばす方法はみつからないようだ。

 最近では顔かたちは人工的に変えることができるらしい。それも二重瞼にするとか、豊かな胸にするとかいった程度の話ではない。

 しかし、問題は人が自分の人種や、生まれてくる時代や、両親や、外見、体型などを自分で選択できないという点である。

 絶対音感といわれる聴覚をもつ人もいる。その反対に音階やリズムに難がある人もいる。

 資産家の家に生まれる子もいれば、貧しさの中で育つ子供もいる。

 根が丈夫で、ほとんど病気らしい病気もせずに長生きする人もいる。どんなに摂生につとめても、絶えず病院のお世話にならなければならない人は少くない。

 身体だけでなく、気質というものもある。個性というものも、才能というものも、努力すれば必ず花開くというわけではない。