疫病が蔓延した末法の時代に、救いの教えを説き広めた親鸞聖人。多くの人びとに慕われていたはずなのに、なぜか現存している親鸞の肖像画は「怖い顔」をしたものばかり。
作家の五木寛之さんは、長年の探求のすえに、ついに九州で「温顔の親鸞」に出会ったと言います。ここでは、五木さんの新刊『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』(新潮選書)から、一部を抜粋して紹介します。(全2回の2回目/前編を読む)
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どんどん遠ざかる親鸞聖人
これまで半世紀以上、さまざまな形で親鸞という存在を考え続けてまいりました。しかし、親鸞によって書かれたものを読んだり、あるいは親鸞についての研究書をひもといたりすればするほど、どう言ったらいいか、親鸞聖人が遠くなっていくような感じがあったのです。
では、現在はどうなのか。たいしたことはありませんが、これまで多くの本も読んだし、寺にも通い、京都の仏教系の大学にも一時籍をおきました。『親鸞』という長編小説も書きました。しかし、今現在の時点でどうかというと、正直なところ、いまだに親鸞という人の姿がぼんやりとしか見えないのです。
親鸞がどんどん向こうへ遠ざかっていって、まぼろしのようにしか見えない。30歳過ぎのあのころ、人から教えられてはじめて親鸞の存在を知ったときの感動、すぐそばにいてこの腕を取り、背中を叩いてくれるような存在だった親鸞の像が、次第しだいに、年を経るごとに薄らいで遠くなっていく。勉強すればするほど分からなくなり、今ではまさしく「まぼろしの親鸞」という感じになってしまっているのです。
これは一体、どういうことなのか。自分自身に問題があるのか、それとも他に理由があるのか。今こうしてお話をしている動機も、正直言ってその辺にあります。
なぜ親鸞像は「怖い顔」ばかりなのか
たとえば、まずは親鸞がどういう顔をしていたのか知りたいと思い、肖像画を探しますね。獣の皮の敷物に座っている「熊皮の御影」や、何か言いたげにしている「うそぶきの御影」など、親鸞の有名な肖像画は何点かあります。
でも、どれを見ても自分が親鸞のことばに感じていたような、温かい手で背中を叩かれたような感覚が湧いてこないのです。
絵に描かれた親鸞はたいてい不機嫌な顔をしていて、どこか怖いような感じがします。いかにもとっつきにくい顔をしていらして、「うそぶきの親鸞」などは何か傲然とした感じで、気むずかしくて峻厳な人という感じさえしないでもありません。