文春オンライン

骨が砕け、肉は割け、それはもう大変な苦痛が…九州南部「隠れ念仏の里」に残された“命がけの信仰”の歴史

『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』より #2

2021/11/06
note

 そういう肖像が伝えられているのは、一体なぜなのか。このことを考えるために、親鸞が描かれた本の口絵をざっと見なおしてみました。歴史的に知られた絵ではありませんが、その口絵もまた、じつに不機嫌そうな顔をした親鸞像でした。

 肖像といえばきまってそうなるのは、何か必然性があるのでしょう。『歎異抄』の中に出てくるような、どこか人間臭い表情の絵はないものかと探してみるのですが、これがなかなか出会えませんでした。

九州にある「隠れ念仏の里」

 どこかに温顔の親鸞像はないものか、ずっとそう思い続けてきて、ようやく出会ったのは今から十数年ぐらい前のことでした。『日本人のこころ』という本のシリーズで、民俗学者の沖浦和光さんなどと一緒に日本中をあちこち歩き回る中で、隠し念仏や隠れ念仏の里を訪ねて旅をして回ったのです。

ADVERTISEMENT

 九州の鹿児島のほうから宮崎、大分の一部に至る、隠れ念仏の里といわれる土地を歩き回っていたときに、ある町でそのわずかな名残を見ることになりました。

 たとえば、「まな板本尊」などというのは、まな板を二つに割ると、中から南無阿弥陀仏という名号が出てくる。あるいは普通に祀ってある神棚を動かすと裏にお仏壇があったりと、様々な仕掛けがあります。

密かに念仏の信仰を守り続けてきた

 ご存じのように江戸時代、島津氏の領内、薩摩藩では浄土真宗が禁教とされていました。その背景にはおそらく加賀の一向一揆があります。守護大名の富樫氏が20万もの一揆勢に攻められて自刃し、その後「百姓の持ちたる国」といわれる共和国が日本ではじめて北陸の地に誕生する。それが100年もの長きにわたって続いた。これはもうパリ・コミューンどころではない、歴史的な大事件なんですね。

 潜伏キリシタンや隠れキリシタンについては、皆さんよくご存じだと思います。主に長崎や天草の辺りで、幕府による禁教と苛酷な弾圧の中でも信仰を守り通した人々です。

 たとえば表向きは大日如来としてデウスを祀り、あるいは観世音菩薩として聖母マリアを拝み、人目を逃れてオラショを唱え、そうやって自分たちの信仰を300年間、秘かに守り通してきた。遠藤周作さんが小説『沈黙』で書かれたような殉教の歴史が、今では世界的にもよく知られるようになりました。

 その隠れキリシタンほど有名ではありませんが、先ほど述べたように、九州の南のほうには隠れ念仏という風習があって、藩による厳しい取り締まりの中で、農民や町人、下級武士たちが密かに念仏の信仰を守り続けてきたのです。