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骨が砕け、肉は割け、それはもう大変な苦痛が…九州南部「隠れ念仏の里」に残された“命がけの信仰”の歴史

『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』より #2

2021/11/06
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「そういえば子どもの頃、父親から『誰にもしゃべっちゃいかんぞ』と言われながら提灯をつけて夜道をずいぶん歩いて、林の中にある洞窟の中に入っていったことがあった。考えてみたら、あれは隠れ念仏だったんじゃないか」

 こういう伝統、風習が昭和の時期まではまだ残っていたということなんですね。信仰の自由は回復されても、東北の隠し念仏も九州の隠れ念仏も地下で密かに生き続け、現存しているんだな、とあらためて感じたものでした。

微笑みをたたえた親鸞像

 そういう隠れ念仏の里を訪ね歩いていたとき、偶然、壁の後ろに塗り込めて隠してあった親鸞像というのを見せてもらったことがあります。それは小さく折り畳まれ、色褪せた一枚の絵像でした。いや、絵像ともいえない立ち姿の人物像ですが、金釘流の文字で「宗祖親鸞聖人御影」と読めます。

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 びっくりしましたね。ああ、こんなところにいらしたのか、と言いたくなるような、初めて出会った親鸞の笑顔です。といっても歯を見せてにっこり笑っているのではなくて、かすかに微笑んでいるような、優しげな表情の親鸞像です。

 やはり孤立した隠れ念仏の人たちは、どんなに偉大な宗教者あるいは思想家であったとしても、怖い顔をした親鸞聖人より、隠れてでもしっかり教えを守り続ける自分たちを優しく見つめてくれる存在が欲しかったのでしょう。おそらく地元の人が描いたと思われますが、その肖像画の親鸞は、私がそれまで出会った中で唯一の温顔でした。

かすかに残っている親鸞像の表情

 現在はどうなっているか、今なお隠されているのかも分かりません。しかし、今の教団組織の中では大本山があり、きちんと統制のとれた形で布教が行われている。仏教も中央集権的で、地方によって勝手に色々な親鸞像を作り上げてはまずいということがあるかもしれませんね。

 しかし私は、隠れ念仏の人たちが求めた温顔、微笑をたたえた像を見たときに、何十年もかかって自分が出会いたかった親鸞の肖像に出会ったような気がして、本当にほっとしたものでした。

 それから何十年かたって、私も90歳に近づきました。これまで、数では随分と本を読み、旅をし、親鸞にゆかりのある場所や土地を訪ね歩いてきました。けれど、では今はどうなのだと問われると、頭の中に残っているのは隠れ念仏の里でちらっと見せてもらった親鸞像、その表情がかすかに残っているだけなのです。

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