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僕は深夜のオフィスで“令和”を迎えた――平成パワハラ世代は、新時代を生き延びられるのか

2024/05/01
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令和時代の「正しさ」とは?

 どういうわけか僕は、その疑問に取り憑かれた。思い返せば、自分も若い頃は「先輩たちの考えは古いですよ」と言っていなかったか? 新しい時代が訪れると、それを体現していると主張する新しい世代が現れて、古い世代を糾弾することはこれまで何度も繰り返されてきたんじゃないか? 

 もしかするとここには、時代と人間との関係性にまつわる本質、あるいは時代の中で人間が幸せになるためのヒントが隠れてるんじゃないか? 彼らへの失望は、いつしか不思議な執着に変質していった。そうして僕は「令和元年の人生ゲーム」という連載を始め、その中で2016年から2024年までの10年弱、つまり平成の終わりから令和の今日に至るまでの若者たちの迷走を執拗に描くようになった。

『令和元年の人生ゲーム』
(麻布競馬場)
『令和元年の人生ゲーム』
(麻布競馬場)

 数ヶ月に渡る連載の末に、僕は「時代の発する正しい声」という概念に至った。それぞれの時代において「これが正しい」「こうするのが正しい」という、誰が発したのかも分からない声を、賢い僕たちは正確に聴いている。それなのに、僕たちはその通りに動くことができない。声の主は姿なき時代なのだから、その通りに動いてしくじったとしても誰もその責任を取ってくれない。刻々と変わり続けるそれを、明日もあさっても同じように信じてよいという保証もない。それに、少し前まで永らく聴かされていた別の正しさを、すぐに捨てられるはずもない。頭では分かっていても足はすくみ、たとえ走り出したとしても不安は消えず、遂には立ち止まってしまったりもする。その間も、時代は責めるように耳元で正しさを囁き続ける。その不安を解消するために、僕たちはつい、正しさを完全に理解したフリをしてしまう。

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 正しさを囁く時代と、その通りに動けない平成の僕たち。平成に取り残された僕たちと、正しさの証明のために平成を拒絶しなければならない令和の若者たち。皮肉なことに、どちらも「時代の被害者」という点において似た者同士だった。皮肉な話だが、だからこそ僕はそこに連帯の希望を見出している。だって、僕たちはみんな、同じ傷を抱えているはずなのだから。