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阿久悠さんの歌詞は「みんなのものになった」

 ただし、一方で水野は、作家の名が前面に出ると「みんなのものになれない」ので、ある種の匿名性も大事だと思うと話している。阿久悠の歌詞もまさに匿名性があったからこそ、《「阿久悠さん」という作詞家の手を離れて、みんなのものになったものがとても多い気がする》と分析する(※3)。

 こうした発言を総合するに、水野がめざすのは、適度に「自分」を出して人々とコミュニケーションを成立させながら、一方で匿名性をもって多くの人に共有される作品……とでもなるだろうか。それはスタンダードたる条件といえるが、現代はスタンダードが生まれにくい時代でもある。これについて彼は、別の対談でこんなふうに語っている。

《1万人の方がCDを買ってくれたとして、そこからどんどん派生して、買っていない人も自然に聴いているということは起こりづらくなっているように思います。「あなたはそれが好きなのね」で終わって、コミュニティ同士の横断がない。そこがすごく嫌だなとは思っているんです。いきものがかりというグループを長年やらせていただいていて、なぜ具体性がなく、主語が明確じゃない歌をつくるのかと言えば、どんな価値観の人でも、どんなコミュニティにいる人でも、年齢に関係なく、そこはつながるだろうという隙間があるのではないかと思っているからです》(※4)

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東京ドームの巨人・阪神戦で始球式を行う吉岡聖恵(2010年8月21日) ©時事通信社

「上を向いて歩こう」みたいな曲を作りたい

 言われてみると、いきものがかりの曲にはたしかに主語があまり出てこない。NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』の主題歌にもなった前出の「ありがとう」では、「あなた」は出てくるが、具体的に誰がどんな人に向かって「ありがとう」と伝えようとしているのかはわからない。だからこそ、聞き手がさまざまな人間関係に置き換えて感情移入することができる。なお、水野は同じ対談で、自分が参考にしている歌の成功事例として坂本九の「上を向いて歩こう」(1961年)をあげている。

《「上を向いて歩こう」というメッセージは普遍的なものになっていて、その言葉を聞いた人はみんな「前向き」なイメージを持つと思うんです。それぐらい、世の中に影響を与えている。「こういう音楽だ」とカテゴライズされておらず、「上を向いて歩こう」は「上を向いて歩こう」でしかありえない。そして、メッセージが広く伝わり、みなが意識しないぐらい一般化されている、僕もああいう曲をつくりたいと思っているんです》(※4)

 いきものがかりには、インディーズ時代にライブハウスに出演していたころ、未知の観客にファンになってもらうため、必ずやっていたことがある。それは、メンバー紹介やその日に演奏する全曲の歌詞を書いたパンフレットを配布することだ(※5)。ちょっとした工夫だが、そんなふうにファンとコミュニケーションをとるすべを初期から模索してきたからこそ、その後の彼らがあったのだろう。水野にとって放牧は、プロデュース力にさらに磨きをかける期間でもあったといえる。集牧したいきものがかりが、彼のリードのもと、どんな新時代のスタンダードたる作品をつくっていくのか、いまから楽しみだ。

※1 『Number』2018年12月20日号
※2 『ブレーン』2016年10月号
※3 水野良樹・糸井重里「阿久悠さんのこと。」第3回(「ほぼ日刊イトイ新聞」2017年10月18日)
※4 『ブレーン』2017年11月号
※5 水野良樹『いきものがたり』(小学館)、『ブレーン』2018年2月号