「ボヴァリー夫人」から「失楽園」まで、結婚制度からこぼれ落ちた恋愛とその結末を描いた小説や映画は無数にあるし、その多くが哀しい終わり方をする。特に、社会階級や宗教対立などが極めて限定的で、国際結婚も別に珍しくない現代においては、「ロミオとジュリエット」的な意味での恋愛の障壁を描くのは、「高校教師」や「パッチギ」など一部を除いて多くが不倫モノになるわけで、ここぞとばかりにめでたしで終わらない悲恋の物語がそこに凝縮する。罪は罰せられ、罪のない者も巻き込んで、人がすれ違い、人が傷を負い、人が死ぬ。

「既婚男性と愛人」は日常の背景として挿入される

 ただ、ハリウッド映画でも日本の小説でも何でもいいが、古典から現代に至るまで愛と苦しみと罪と罰を描いたような不倫大作は、伝統的に女性側の不倫、もしくはダブル不倫を描いたものが多い。「アンナ・カレーニナ」も「マディソン郡の橋」も「恋に落ちて」も「逢びき」も「グレート・ギャツビー」ですらそうだし、「昼顔」も「不機嫌な果実」も「愛の流刑地」もそうだ。より退廃的で、より罪深く、より文学であるのは女性の不倫であると言わんばかりに。

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 さて、「黄昏」や「浮雲」など未婚女性の不倫を扱った作品もないことはないが、既婚男性と愛人は、それ自体がモチーフとなるのではなく、単なるサイドストーリーや夫のロクデモナさを説明する小道具のように扱われることの方が圧倒的に多い。「血と骨」のように身勝手で暴力的な夫が愛人を囲っていることは多いし、コメディ漫画では、昼下がりの社長室で秘書と愛し合っている社長が、ほとんどただの日常の背景として挿入されるのだ。男と愛人なんていう陳腐な関係に、描くほどの物語性はないと言わんばかりに。

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家族がいる男性との恋愛の一番辛いところ

 要するに、許されない恋に身を投じてしまう既婚女性の末路は多くの文学が寂しさや悲しさとともに指し示してきたわけだが、不倫関係を持つ未婚女性についてはそれほど有名な物語によって共有されていないし、ピンとくる末路はあまり思い当たらない。既婚男性との恋愛にうつつを抜かす愛人たちは、よって、文学未満の己の末路を自ら描き切らなくてはならないのだ。そして当然、それは物語として語られるようなドラマチックにもスキャンダルにも欠けた、とても地味でつまらないものになるのだけど。

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 数年前、とある友人が、こんなことを言っていた。

「家族がいる男との恋愛の一番辛いところは、絶対にこちらが終わりを決めなきゃいけないことだよ」