下を向くと、額にたまった汗がこぼれ落ちた。いつもと変わらず、黙々と、ピカピカになるまで磨き上げた。3月29日、広島市内の選手宿舎。自室のトイレで毎朝のルーティーンをこなしていたのは、桜井俊貴だった。数万人の中心で、視線を一身に浴び、全力投球。華やかでド派手な世界からは想像がつかない、一日の始まりだった。
毎朝トイレ掃除を行うワケ
プロ3年間で未勝利。昨年、初めての1軍登板なしに終わった2015年のドラフト1位が開幕メンバーの座に返り咲いた。「去年は1軍で投げられず、本当に悔しい1年でした。何としても今年、シーズンを通して1軍に生き残り、チームの勝利、優勝に貢献したいです」。背水の今季へ向け、オフは秋季キャンプから高橋由伸前監督から後を継いだ原辰徳監督に猛アピールし、自主トレはエースの菅野智之に2年連続で帯同。2月から3月の実戦で好投を続け、チームから信頼を勝ち得た舞台裏には、グラウンドとは無関係の儀式があった。
昨年末、ある本を読んでいてハッとした。日々トイレを掃除することで事が好転する、と記されていた。「行動することで意識などが変わると思い、実践できることはしていこうと思いました」。投球の技術、肉体のトレーニングを目一杯しているのは言うまでもない。その中で、藁にもすがる思いだった。数年前にシンガーソングライターの植村花菜(Ka-Na)さんが歌った「トイレの神様」は大ヒット。ソフトバンクが日本一に輝いた2011年、主砲の松中信彦さんがゲン担ぎにトイレ掃除をしていたことも大きな話題となった。
食事中の方が読まれることも考慮し、詳細は控えるが「とにかく磨きまくります」というのが桜井スタイル。自宅だけでなく、キャンプ地や全国の遠征地でも宿泊先でとにかく毎朝、起床するとすぐトイレに向かった。一心不乱に綺麗にした。「朝起きてすぐ、気持ちを落ち着かせ、今日一日やるべきことを整理できる良い時間にもなっています」。心技体。全てがしっかりと備わって初めて数字が残る世界なのだろう。
巨人のドラフト1位という重圧
新聞記者時代、間近でプロ野球選手を取材する機会に恵まれ、最も感じたことは計り知れないプレッシャーと戦っているということだった。もちろん、時に5万人を超えるお客さんの大歓声や万雷の拍手は、何事にもかえがたい喜びだ。ただ、それよりもブーイングやため息の行先になる方が圧倒的に多い。
読者の皆さんには想像していただきたい。5万人の観衆に囲まれ、360度から熱視線を送られ、一挙手一投足にリアクションを向けられる。結果が出なければ即座に球団から戦力外通告。そんな環境下で平常心を保って行動することができるのかどうか。少なくとも私が同じシチュエーションで今、この原稿を書いていたら、両膝は震え、両手が汗びっしょりでキーボードを打つことはできないだろう。そんないばらの道でも、ケタ違いの重圧がのしかかるのが巨人ナインであり、ドラフト1位の宿命と言える。
立命館大でコツコツと野球に打ち込んでいた青年が、公人となったのは2015年10月22日。ドラフトで常勝軍団と赤い糸で結ばれた22歳は「いつか巨人の顔になれるようにしたいです。野球をやっている小さい子の見本になりたいです」と力強く宣言したが、実際は上の空だった。その夜から数日間。布団に入ればYGマークのユニホームに袖を通した自分が打ち込まれている悪夢にうなされた。直後の関西学生野球リーグ。マウンドに上がると予期せぬ事件が起きた。
「何かがおかしい」。18.44メートル先の捕手の姿がかすんでいた。サインは一切見えない。「やばい」。暗闇の中、感覚と勘だけを頼りに投げた。「今でも原因は分からないんですけど、ドラフトが終わってからおかしくなっていました」。ジャイアンツの黄金ルーキー。ひっさげた金看板が、大学生の体に異変をもたらしていた。一時的なものですぐに視界は開けたが、球界の盟主の一員になることの重さを嫌でも感じ取っていた。