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「寄り添う想像力」が必要な時代へ

 来るべき「令和」はどんな時代になるだろう。まったく想像ができないけれど、その想像できなさを何とか乗り越えていこうと試行錯誤する時代になるんじゃないか、という予感は少しだけある。

 ちなみに今回取り上げた題詞後半部分に、こうある。

若非翰苑、何以情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。(若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古今(ここん)それ何そ異ならむ。宜しく園梅を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。)

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【訳】もしここに詩や歌といった「ことば」(3) がなかったら、どうやって(こんな宴会日和のたのしい)気分を表現するのか。漢詩に落梅の詩篇があるではないか。気分や感情を表現するために、漢詩が作られた昔も、和歌が作られる今も、心は変わらない。ほら、庭の梅を詠んで、和歌をつくろうではないか。 

 ことばがなければ、感情も感動も共有することができない。だから想像をことばにする。それは千二百年前の奈良時代から、今に至るまで、変わらない。

 だれかに寄り添うこと。そのための愛しい想像をことばで綴ること。それをするに値する時期。と、いうのが私の提示する「令和」出典のひとつの解釈だ。もちろん元号を決めた人がそんな解釈を込めたかどうかは分からないけど。

 どうせやってくる次の時代ならば――きっとこれまで以上に「寄り添う想像力」が必要な時代に――こんな意味が新元号にあるのだ、と考えてみるのも一興ではないだろうか?

 


(1)本文はすべて『新校注 萬葉集』(井手至・毛利正守編、和泉書院、2008年)によった。訓釈は『萬葉集釈注』(三、伊藤博著、集英社、1996年)を参考にした。

(2)木下正俊「旅人―自然と孤独―」(『国文学解釈と教材の研究』19巻6号、1974年5.月)は「っていうかみんな一堂に会したかのよーに妄想で和歌を並べたんじゃない!?」という解釈をなさっています。真偽の程はいかに。

(3)「翰苑」を「ことば」って訳してるんですが、もとは「文筆の苑」の意で、「詩や手紙といった文章の量が多いこと」って意味です。ご注意を。