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渋谷のハチ公はなぜ「日本一の待ち合わせ場所」になったのか? 再開発で一時移転?

「死んだ主人を待ち続けた忠犬」のウルッとくる話

2019/04/08

genre : ニュース, 社会

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新聞で一転 「ハチ公せんべい」に「ハチ公チョコレート」も

 ハチの渋谷駅通いについては、駅前の屋台の焼き鳥がめあてだったという説が伝えられたことがある。たしかにハチは焼き鳥好きではあったものの、屋台の開く夕方だけでなく昼にも駅へ通っており、いまではこの説はほぼ否定されているようだ。

 渋谷駅で亡き主人を待ち続けるハチの存在は、先述のとおり新聞で紹介されたことから一躍世間の知るところとなる。ハチの銅像建設を発起した日本犬保存会の創設者・斎藤弘吉によれば、記事が出ると駅員や売店の人々は急にハチをかわいがるようになり、駅には連日、各地から愛犬家が食べ物を持って訪れ、小学生が何人も連れだって頭をなでに来た。駅長も本業よりもハチのための応接に追われたという。ハチの評判に乗じて、渋谷駅前では「ハチ公せんべい」や「ハチ公チョコレート」などを売り出す店も現れた。

日本を訪れる観光客にとっても人気のスポットになっている ©文藝春秋

1934年に銅像完成 さっそく待ち合わせる人も 

 ハチの銅像をつくるという話も、こうしたブームに端を発する。じつは斎藤弘吉はハチの存命中に銅像はつくるべきではないと考えていた。しかし、そこへハチの木像をつくって渋谷駅に飾るための資金集めと称して、木版画の絵はがきを売り出す者が現れる。これに困惑したのが、彫刻家の安藤照である。安藤はハチの石膏像を帝国美術院美術展覧会(帝展。現在の日展)に出展して高い評価を得ていた。木像計画の宣伝の高まりを受けて彼は、懇意にしていた斎藤に銅像建設の発起をうながす。これに斎藤も考えをあらため、木像計画の当事者に協力を求めて断られると、発起人を募って「忠犬ハチ公銅像建設会」を1934年1月に設立し、主に児童から少額の寄付を集めることで建設資金をつくった。

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 安藤は石膏像をもとに銅像を完成させる。その除幕式は1934年4月21日に行なわれた。この日、渋谷駅前は見物人で大混雑となり、上野英三郎の孫娘を斎藤弘吉が抱きかかえながら人ごみをかき分け、ようやく銅像に近づき、幕を引くほどだった。銅像はさっそく東京名所となり、待ち合わせにも使われるようになった。このころハチ人気は絶頂に達し、『あるぷす大将』という映画に銅像とともに登場したり、サトウハチローの作詞による「ハチ公の歌」というレコードもリリースされた。