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「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」

《熊はオドの腰の辺りに激しく咬みかかり、尻から右股の肉をえぐりとり、右手に爪傷を負わせた。「うわあ!!」

 体が引き裂ける痛みにオドは絶叫した。

 この叫びに思わず手を放した熊は、今度は恐怖に泣き騒ぐ親子のいる居間に戻った。ここで熊は明景金蔵を一撃の下に叩き殺し、怯える斉藤巌、春義兄弟を襲った。巌は瀕死の傷を負い、春義はその場で叩き殺された。この時、片隅の野菜置場に逃れていた母親斉藤タケは、わが子の断末魔のうめき声に、たまらずムシロの陰から顔を出してしまった。執拗な熊はタケを見つけ、爪をかけて居間のなかほどに引きずり出した。タケは明日にも生まれそうな臨月の身であった。「腹破らんでくれ! 腹破らんでくれ!」「喉食って殺して! 喉食って殺して!」

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 タケは力の限り叫び続けたが、やがて蚊の鳴くようなうなり声になって意識を失った。

 熊はタケの腹を引き裂き、うごめく胎児を土間に搔きだして、やにわに彼女を上半身から食いだした》

 まさに地獄である。

 北海道民は開拓時代からずっと、ヒグマと戦い続けていた。死者3名・重傷者2名を出した札幌丘珠事件(1878)、死者4名・重傷者3名を出した石狩沼田幌新事件(1923)、パーティー5人のうち3人が殺された福岡大ワンゲル同好会事件(1970)など、毎年のように悲惨な事故が起きている。

 内地の人は「それは昔の話ではないのか。それにヒグマ事故は高い山や知床など、人があまり行かないところで起きているのではないか」と思うかもしれない。しかし実際には、平成に入っても190万都市の札幌市内だけで年に100件以上のヒグマ出没騒ぎがあり、襲われて死ぬ者もいる。

 この『慟哭の谷』は、深い山の中の、昔の話ではない。いまも読者が北海道旅行に行って、ほんの数歩、国道沿いの藪の中に入っていけば、そこにある現実である。だからこそ、私たち読む者の喉元に凄まじい恐怖を突きつけるのだ。