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『なつぞら』麒麟・川島明 実在モデルは高畑勲&宮崎駿の“育ての親”だった

『なつぞら』麒麟・川島明 実在モデルは高畑勲&宮崎駿の“育ての親”だった

アニメーター大塚康生88歳に

2019/07/11
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『ルパン三世』という転機

 翌1969年公開の『長靴をはいた猫』では、作画監督の森康二のもと、宮崎駿とともに原画を担当した。その制作中にすでに退社を決めていた大塚は、1968年暮れ、東映時代の同僚・楠部大吉郎が退社して設立していた作画スタジオ・Aプロダクション(現・シンエイ動画)に移籍する。のち1971年にテレビアニメ『長くつ下のピッピ』の企画がAプロで持ち上がると、これに最適なスタッフとして東映動画の後輩である高畑・宮崎に加えて小田部羊一を誘った。結局この企画は日の目を見なかったが、3人の才能は、Aプロを経てズイヨーに移籍後に手がけたテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)で結実する。

1985年に高畑勲とスタジオジブリを設立した宮崎駿 ©文藝春秋

 大塚がAプロに移籍するきっかけとなった作品こそ『ルパン三世』だった。Aプロの親会社にあたるアニメ制作会社・東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)の制作部長(のち社長)だった藤岡豊は、『ルパン』の企画を発案すると、楠部から大塚はクルマや銃にくわしいと推薦され、自らスカウトに乗り出した。このころ大塚が船橋サーキットへカーレースに通っていることを知った藤岡は、サーキットで偶然を装って大塚と接触して仲良くなると、3~4度目ぐらいに会ったときにようやく素性を明かして『ルパン』に誘ったという(※3)。

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『ルパン』はまずパイロットフィルムを制作し、テレビ各局に持ち込んだが、内容がかなり大人向けとあってなかなか採用されなかった。日本テレビ系のよみうりテレビで放送が始まったのは1971年、企画から2年後のことである。作画監督を務めた大塚は、演出の大隅正秋(現・おおすみ正秋)から、画面にリアリティと重みを持たせるべく、実在するクルマや銃を登場させるよう指示された。これを受けて、ルパンにはワルサーP38、凄腕のガンマン・次元大介には破壊力抜群のコンバットマグナムを、女性の峰不二子には小型で突起が少なく取り出しやすいブローニングM1910を……といった具合に、拳銃にしてもそれぞれのキャラクターに見合ったものを持たせた。ここには、麻薬Gメン時代に、押収品の拳銃のスケッチや分解掃除もしたという大塚の経験も生かされている(※4)。