「ルパンの愛車をフィアット500に」宮崎駿のアイデア
スタッフらが意気込んでスタートさせた『ルパン三世』第1シリーズだが、視聴率が低迷し、途中で大隅正秋が降ろされ、替わって高畑勲と宮崎駿が大塚の依頼により演出を務めた。演出の交代により、シリーズ前半で高級スポーツカーのベンツSSKに乗っていたルパンは、後半ではイタリアの大衆車フィアット500に乗り換えている。それというのも、大隅が「ルパンは生まれながらの金持ち」という原作者のモンキー・パンチによる設定からルパンの愛車をベンツに決めたのに対して、宮崎は「ルパンは泥棒だけど、結局なにも盗らない。だからカネがないはずだ」と主張したからだ(※3)。大塚はいずれの演出意図にも応じて、クルマとルパンが見事に一体化しているように描き、職人としての本領を発揮した。
じつは制作当時の大塚の愛車であったフィアット500は、このあと、宮崎駿の初映画監督作品で、大塚が再び作画監督を務めた『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)にも登場し、ルパンの代名詞となる。このとき大塚は、藤岡豊が新たに設立したテレコム・アニメーションフィルムに移籍していた。その後、高畑勲監督の『じゃりン子チエ』(1981年)で作画監督を務め、藤岡肝煎りの日米合作の超大作『リトル・ニモ』の企画実現にも尽力したが、演出予定だった宮崎・高畑・近藤喜文があいついで退社、大塚も途中で現場をリタイアする。結局この作品は、『ニモ』として1989年に完成し、国内では不入りだったものの、アメリカではビデオが200万本のセールスを記録した(※2)。
1990年代以降、大塚は代々木アニメーション学院のアニメーター科講師を務めるなど、後進の育成が主な活動となった。2002年には長年の功績を讃えて文化庁長官賞が贈られる。このとき、「アニメーション作家として表彰する」との選考理由に、大塚は《作家とは演出家のことで、私は一技術者に過ぎない》といったんは辞退していた。しかし翌日、今度は「練達のアニメーターとして表彰したい」と連
※1 大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』(文春ジブリ文庫)
※2 叶精二『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房)
※3 大塚康生・森遊机『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』(実業之日本社)
※4 『Pen』2012年6月15日号