1ページ目から読む
3/4ページ目
「ジャニーさんのOKが出るまで永久にやり直しの世界」
以来、松本はロック界と歌謡界のあいだに橋を架けるつもりで試行錯誤を続けながら、ヒットを連発していく。この間、松本と同世代、さらに下の世代のミュージシャンたちが次々と台頭し、ロックと歌謡曲に隔たりなどなかったかのように自由に行き来するようになっていた。こうしたミュージシャンたちによる音楽はニューミュージックと呼ばれ、現在のJポップへとつながっていく。
松本は80年代に入ると、太田裕美「さらばシベリア鉄道」(1980年)とイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」(1981年)でそれぞれ大滝詠一と細野晴臣とタッグを組んだのを皮切りに、はっぴいえんど時代の仲間とも数々の名曲を世に送り出す。松田聖子や近藤真彦などアイドルの楽曲では、細野や大滝のほか、松任谷由実や山下達郎といったニューミュージック系のミュージシャンと組んでのヒットも多い。
近藤真彦への楽曲提供は、筒美京平と組んだデビューシングル「スニーカーぶる~す」(1980年)からだが、それは先ごろ亡くなったジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川の意向によるものであったという。松本はジャニーについて次のように語っている。
《ジャニーさんはとても面白い人で、ルックスがいい子を集めるというのもあるだろうけど、音楽性の高いロックを歌わせて本物のスターを作りたがった。だから筒美京平さんとかもどんどん起用していたんだろうね。/曲についてもすごくこだわりの強い人で、ジャニーさんのOKが出るまで永久にやり直しの世界。『スニーカーぶる~す』には別のテイクがあるというけれど、何度も書き直しているからそれは無数にあるんじゃないかな》(※5)