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「内田裕也さんは怖いよ、はっきり言って(笑)」

 内田はそれ以前、グループサウンズ(GS)のバンド「ザ・タイガース」のデビューに携わるとともに、自身も大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属しながら、芸能界的なシステムと自らのロック観との齟齬に悩み苦闘してきた(※1)。はっぴいえんどへの批判は、内田のそうした苦い体験を踏まえたものであった。

 このあと、音楽誌『ニューミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン』)が企画した座談会(1972年5月号)には、あらためて内田とはっぴいえんどから大滝と松本が呼ばれたが、記事中、両者が直接やりとりしたのは1ヵ所だけだった。松本自身ものちに語っているように、この論争は、じつのところ雑誌側が「面白おかしくでっちあげた」部分が大きかった。《内田裕也さんはあの当時ロック界のボス、僕はまだ20代前半だから。怖いよ、はっきり言って(笑)》という後年の発言(※3)から察するに、座談会では思うように意見を述べられなかったのではないか。

はっぴいえんどではボーカル・ギターを務めた大瀧詠一 ©文藝春秋

「木綿のハンカチーフ」作詞家としての転機

 はっぴいえんどが1973年に解散したのち、松本はチューリップ「夏色のおもいで」(1973年)やアグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」(1974年)を手がけたあたりから、本格的に作詞家として活動に入った。これにより、それまでほとんどかかわりのなかった芸能界・歌謡界に乗り込んで、かつての内田裕也と同様に孤軍奮闘することになる。当時、ロックと芸能界のあいだにはかなりの隔たりがあった。ロックの世界からの転身に対しては、かつてのファンから裏切り者呼ばわりされることもあったという。

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 作詞家になった当初は、《歌謡曲の詞ってのは既製品としてあって、自分はそれを書かなきゃいけない、みたいな強制観念があった》が、やがてそれに疑いを抱くようになり、もう一度自分の詞に戻ることにした(※4)。太田裕美に書いた「木綿のハンカチーフ」(1975年)は、その一つの転機となる。同曲では都会というテーマに立ち返るとともに、都会に出た男と田舎に残された女とそれぞれの言葉を、男女のデュエットではなく、女性シンガーが1人で歌うという形式がとられた。しかも全編が8つのパラグラフから成り、タイトルに掲げられた「木綿のハンカチーフ」は最後になってようやく登場する。それは当時の歌謡曲の常識からすれば、あまりに型破りだった。作曲の筒美京平は、渡されたこの詞をどうにか書き直させようと、深夜にディレクターや松本を電話で探し回ったが、結局つかまらず、しかたなくそのまま曲をつけたという。のちに松本は、《あの電話で、もしディレクターなりぼくがつかまってたら、一番けずれとか、二番けずれとか、そういう話になって、あんなに売れなかったかもしれない》と語っている(※4)。