Q 社会学を学ぶうえで大切な心構えを教えてください。

 社会学では「参与観察」という手法が用いられることが少なくありませんが、鈴木さんがこれまでに参与観察を行う上で自らに律してきたこと、および他者の行った参与観察を評価する際に用いる基準などありましたら、ご教示下さい。(20代・女性・学生)

A 自分に正直な「感情」も大事です。

 社会学に限らず研究分野によってはフィールドワークの必要性を感じる研究者は多いと思います。文系学生で定質的調査をしたいのであれば、研究対象となる国や民族、グループなどに一定期間滞在し、実際に一員となって観察するいわゆる「参与観察」をする機会があるかもしれません。相手にするのが国会図書館に眠る古い文献ではなく、実際に動いている人間集団ですから、その対象との距離の置き方、関係の持ち方、どれくらい参加するかといった手法は本当に千差万別です。どんな方法がいいかは対象の性質や論文における問いの性質にもよりますし、研究者の性格にもよります。

 私自身は自分が好奇の目で見られるような業界に長く身をおいていたこともあり、インタビュー調査や「やってみた」的な参与観察を自分がする気はないですし、面白半分でそういったことをする若い研究者は嫌いですが、研究分野によっては必然性を感じます。私の先輩でSEX AND THE CITYの視聴者に根気よくインタビューを重ねて素晴らしい論文を書いた人もいます。まずは参与観察によって書かれた論文をたくさん読んで、いろいろな形があるということを学ぶのがよいと思います。『ハマータウンの野郎ども』『暴走族のエスノグラフィー』『アフター・アメリカ』など名作と呼ばれるものだけをとっても、作者と研究対象の距離感は様々です。

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 そういうわけで、私が自分に律していた、或いは、他の人の研究を判断する際によりどころとするポイントというのはとても少なく、2点だけです。ひとつはフィールドワークを文献研究や歴史研究の対義語であると勘違いしないこと。フィールドワーカー系の研究者はひたすら図書館に通って文献のコピーをとったり、歴史書の隅々まで調べあげたりする作業を苦手とする人が多いですが、外に出た分と同じもしくはそれ以上の時間を歴史や先行研究、参考文献にあたることにさくべきです。不勉強で中身の無い人間は、外に出たところで「眼差すための眼」を持っておらず、どんなにキケンな思いをしたところで感想文程度のものしか持ち帰れないからです。

 もうひとつは、理論や調査を感性や感情の対義語であると勘違いしないこと。特に社会学の研究室などにいると、人文と科学のバランスがとれず、過度に理論や数値だけを頼りにものごとを捉えるようになるというのは一つのあるあるだと思います。勿論理論の勉強をするべきですが、自分が感情をもった人間であるということを無視した研究は、結局あまり面白いものにならないと私は思っています。参与観察で人と接するのであれば尚更、そこで自分の感じた怒りや共感、違和感や同情など、負の感情も含めた心の動きを受け止めて重要視しながら研究に挑むべきだと思っています。

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