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最後のキャッチボール

 最前線となった鹿児島の鹿屋基地で迎えた特攻の前日、進一は名古屋軍の赤嶺昌志代表が餞別にくれたニューボールを使って、法政大学野球部出身の本田耕一少尉と“最後のキャッチボール”をする。周囲には見物の人だかりができ、報道班員だった作家の山岡荘八もその中にいた。

 特攻の日、進一はボールを持って飛行機に乗り込んだが、操縦席から鉢巻と一緒にボールを投げ捨てた。ボールとともに届けられた藤吉宛の遺書には、

「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない」

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 と書かれていた。藤吉の進一に対する想いは、東京ドームの脇にある「鎮魂の碑」で読むことができる。

東京ドーム脇の「鎮魂の碑」 ©大山くまお

 進一は何からも逃げることなく、正面から時代とぶつかりあって特攻で死んだ。だが、ずっと勇ましかったわけではない。生前、何度も「戦争で死ぬことてんなんてん、アホらしか。俺ァこぎゃん若さでまだ死にとうなか。やりたかことの半分もしとらんのに、そうやすやすと死ぬっもんですか……」と漏らしていた。軍国少年だった牛島氏は「進ちゃんはヒイタレ(臆病者)ばい」と苛立っていたほどだった。鹿屋基地で「死にたくない、怖い」と漏らしたこともあったし、兵舎の陰で泣いていることもあったという(スポニチアネックス 2015年8月4日)。

「いひゅう者」で本当の気持ちを素直に言わない進一が、遺書のとおり本当に「悔いはない」と思っていたかどうかはわからない。ただ一つだけ言えるのは、もっと野球がやりたかったんだろうな、ということだけだ。

 野球がやりたくて仕方なかっただけなのに、やれなくなってしまう。
恋人と一緒に過ごしたかっただけなのに、過ごせなくなってしまう。
かけがえのない日常がいとも簡単に奪われてしまう。それが戦争だ。

 当時の日本には、無数の進一のような若者がいた。二度と石丸進一のような若者を生まないために「不戦の誓い」を続けていかなくてはならない。

 そのためにも今から100年ぐらい前に生まれた選手のことを、たまにこうやって思い出したり、話し継いでいかなければいけないんじゃないかと思っている。たとえば、ドラゴンズの選手全員が石丸進一の背番号26で試合をする「ドラゴンズ版ピースナイター」があってもいいんじゃないだろうか?

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