パリに亡命した養女
長男正男は、平壌の閉鎖された環境で育った。唯一の遊び相手は李南玉(リナムオク)だった。彼女は、成恵琳の姉、恵琅の娘だ。1966年に平壌で生まれた。父親は、南玉が2歳の時、交通事故で亡くなっており、金正日の養女となった。
正男は家族や使用人以外、外部の人とは会えない生活をしていた。遊ぶ時も車に乗って郊外に行き、一人で動物と遊んだ。
不憫に思った金正日が、話し相手として官邸に住まわせたのが、年齢の近い南玉だった。1979年のことで、南玉は13歳、正男は8歳だった。その後、ジュネーブへの留学にも同行し、92年まで共に暮らした。南玉は96年に西側に亡命している。
彼女へのインタビューが『文藝春秋』(1998年2月号)に掲載されている。まとまった形でのインタビューとしては、唯一のものだ。
この中で南玉は、恐怖心なのか、本心なのか不明だが、金正日への批判を慎重に控えている。「彼(金正日)に過剰に責任を押し付けている。彼は国家衰退の責任者ではない」「自分の気分で周囲を怒鳴りつけたり、乱暴をしたりということはなかった」と語っている。
このインタビューは彼女が得意なフランス語で行われた。金正日は「ボン・ヴィヴァン」(美食や快楽を愛する陽気な人という意味)だと形容していた。
叔母に当たる成恵琳についても言及がある。「最後に叔母と会ったのは、モスクワのサナトリウムでした。叔母の病状について申し上げるのを差し控えますが、とにかく、とても重い病気でした」と説明している。
南玉はフランスで、自伝となる『金の鳥かご』という本の出版を計画したことがあるが、反発を恐れてか、出版直前になって中止された。どんな内容だったのか気になる。