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今年限りで引退します……ヤクルト・畠山和洋から恩師にかかってきた突然の電話

文春野球コラム クライマックス・シリーズ2019

2019/10/10

畠山和洋から、突然の電話

「まさかさ、電話なんてかかってくるとは思わないじゃない……」

 そこまで言うと、次の言葉を探すように少しだけ間をおいて猿渡寛茂さんは続けた。

「……最後に電話があったのは、もう十数年も前のことだからさ。そのときは、“結婚します”っていう連絡だったよ。でも、オレの番号は誰かに聞いたのかな? それとも、登録してあったのかな? オレの携帯にはアイツの番号は登録していなかったよ。だから、最初は誰からの電話かわからなかった。でも、声を聞いてすぐにアイツだってわかったよ。嬉しかったよね……」

 猿渡さんの言う「アイツ」とは、今季限りで現役を引退した畠山和洋のことだった。かつて、彼と畠山は師弟関係にあった。いや、ここ最近はお互いに緊密な連絡こそなかったものの、それでも現在に至るまで両者の師弟関係は続いていた。そうでなければ、十数年ぶりに電話がかかってくるはずがない。

「……久しぶりにアイツの声を聞いたよ。で、“どうした?”って聞いたら、第一声が、“今年限りで引退します”って。いつかはそのときがやってくるとは思っていたけど、やっぱりショックだったよね。“あぁ、ついに引退か……”っていう思いが頭に浮かんだよ。でも、涙声じゃなかったのはよかったよね。もう、散々考えた上での結論だったんだろうね。意思が固まっている状態で、意外とサバサバしていたよ。だから、オレは“ご苦労さん”って、声をかけた。そして、彼に謝ったんだ。“すまなかったな”って……」

 このとき、猿渡さんは畠山に謝ったのだという。なぜ、久しぶりの電話で受話器越しに畠山に謝罪したのか? かつて、畠山と猿渡さんはどんな関係にあったのか?

今季限りで現役を引退した畠山和洋と師弟関係にあった猿渡寛茂氏 ©長谷川晶一

第一印象は「動きが悪いなぁ、太っているなぁ……」

 猿渡寛茂――ヤクルトファンにとってはなじみ深い名前だろう。長年にわたってファームを指導し、二軍監督まで務めた人物だからだ。家族の住む静岡県伊東市から二軍施設のある埼玉の戸田まで通うことはできない。だから、在任中は若手選手に交じって選手寮に暮らした。五十歳を過ぎてなお、若者とともに朝も夜も、白球を追いかける日々を送った。

 改めて、猿渡さんの略歴を紹介したい。現巨人・原辰徳監督の父である原貢監督率いる三池工業高校時代に甲子園で優勝。卒業後は三菱重工長崎を経て、1970(昭和45)年に東映フライヤーズに入団。その後、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズと球団名の改称はあったものの、77年まで現役を務めた。研究熱心で守備に対する飽くなき技術探求が評価されて、79年から84年まで日本ハムの守備コーチを担当することとなった。

 ヤクルトとのかかわりができたのが85年のことだった。このときヤクルトの監督に就任していた土橋正幸に請われる形で日本ハムから呼ばれた。かつてフライヤーズの二軍監督を務めていた土橋は、猿渡の野球に取り組む姿勢と確かな技術論を買っていたのだ。

「土橋さんには本当にかわいがってもらいましたよ。土橋さんは一生懸命練習する選手が好きなんですよ。僕は本当に下手くそだったから練習だけは必死にやった。高校時代に原監督にみっちり鍛えられていたから、とにかく体力だけはあったんだよね。それで、プロに入ってからも必死に練習をした。それを土橋さんは買ってくれたんだと思うよ。それで、ヤクルトの監督になったときに、“おい、ヤクルトに来い!”って言うんで、“わかりました!”って(笑)」

 土橋が監督を退任する86年限りで猿渡さんはヤクルトを去り、再び日本ハムのコーチとなった。そして、21世紀を迎えた2003(平成15)年、請われる形で彼はヤクルトに戻ってくる。役職は二軍守備・走塁コーチ。このとき、猿渡さんは印象的な若手選手と出会った。プロ3年目を迎えてもなお、いまだくすぶっていた畠山和洋だった。

「畠山の第一印象? うーん、バッティングはすごいんですよ。試合では勝負強いし、当時からすでに見所はありました。でも、僕は守備コーチだったので、“動きが悪いなぁ……”“太っているなぁ……”という印象の方が強かったね(笑)。高校を出てまだ3年目、二十歳ぐらいの若手にしてはちょっと体形が崩れていたんだよね。腹も出ていたし、“これは、相当鍛えないといかんなぁ”、そんなことを思ったことを覚えているね。同時に、“体を絞ればもっと守備もバッティングもよくなるな”って思ったんだよね」

今季限りで現役を引退した畠山和洋 ©文藝春秋

 それからは徹底的に走らせた。レフトポールからライトポール間を何本も何本も走らせた。他の選手とは別メニューで朝も夜もなく走らせた。当時、二軍監督だった小川淳司前監督も当時を振り返る。

「畠山は練習でも走らされていたけど、私生活がだらしなくて問題児だったから、よく罰走させていたんですよ。あの頃はとにかく毎日、畠山は走らされていましたね(笑)」

 徹底的に走ったことで、すぐに成果が表れた。猿渡さんは言う。

「すぐに動きがよくなったというわけじゃないけど、遠征のときにスーツを着るでしょ? あのスーツが似合うようになったんだよね。ピチピチだったズボンがシュッと締まっていたんだね。そのときに、“あぁ、きちんと成果が出てるな”って思ったな(笑)」

 猿渡さんは楽しそうに、ハハハと笑った。