本書はミステリー小説のようだ。名探偵が鮮やかに謎を解いていくという構成になっているからだ。だけど、それは哲学書であるから、ミステリーとは違うところもある。
ネタバレがないことだ。いや、違う。ネタバレ自体はある。そこには犯人がいて、トリックがあるから、それをバラしてしまうことはできる。しかし、哲学書はネタバレしてしまっても、一切ダメージを受けない。その理由についてはのちに述べる。ということで、遠慮なく、今からネタバレを始めることとする。
本書は「なぜ原子力を使ってはいけないのか」と問うことから始まる。東日本大震災の原発事故以降、私たちはこの問いに対する様々な政治的・経済的な議論を耳にしてきたわけだが、著者はこれに対して“哲学的”に考え抜く必要があるという。すなわち、「なぜ人間は原子力をこんなに使いたいのか」と問う。そのために、自然とは何か、技術とは何かと問い、古代ギリシアから現代に至るテクストを縦横無尽に読み込んでいく。とりわけ、ハイデガーの「放下」という奇妙なテクストを追いかけていく。
最後、名探偵は犯人にたどり着く。フロイトのナルシシズム概念だ(これがネタバレだ)。つまり、「これでやっと何にも頼らなくても生きていけるぞ」という外部を必要としない、完全な自立への欲望こそが原子力信仰の根底にあるものだと看破されるのだ。
本書が心理療法家である私にとって切実であったのは、國分氏が語っているのは、原子力のことでもあるのだが、同時に原子力「時代」についてであるからだ。すなわち、私たちの「時代」が語られているのだ。
私は日々、誰にも頼れず、自ら周到に他者を排除してしまう人たちと心理療法を営んでいる。彼らは原子力のようにあまりに自立しすぎていて、孤独になっている。他者とうまく繋がれないのだ。それは競争的で自己責任を問われ続ける私たちの時代を極端な形で具現した孤独だと思う。本書を読んでいるうちに、私は気づけばそういうことを「考え」させられていた。
そうなのだ、考えの内容には様々な意見があるだろうが、本書は私たちを「考える」ことに否応なく巻き込んでいく。これが哲学書にネタバレがない理由だ。犯人が明らかになることよりも、その捜索のプロセスにこそ哲学は宿る。思考を運動させること、そのようにして魂を鍛えること。それが哲学書の本性だ。
そして、実はここに本書の深いところに響いているメッセージがある。
ドクトリンではなく、鍛え上げられた思索によって原発と向き合うこと。そのために哲学が必要だと、著者は繰り返し語っていたのだから。
哲学書にネタバレはない。本書はそれを体現してみせる。
こくぶんこういちろう/1974年、千葉県生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専門は哲学、現代思想。著書に『暇と退屈の倫理学』、『中動態の世界』(小林秀雄賞)ほか。
とうはたかいと/1983年生まれ。臨床心理士、博士(教育学)。十文字学園女子大学准教授。『野の医者は笑う』『居るのはつらいよ』等。