では、仮にうまくいったらどうなるか。彼らが必死こいて切り開き踏みしめた道を、まずはブルドーザーなどで整地していく。さらに後続部隊によって道はきれいに舗装され、整備が進んでいく。こうして企業は新しい事業領域を確保できることになる。
「社長、この道は私が作ったのです」と言い出す奴ら
しかし多くの会社でみられる光景だが、「藪を漕ぐ」馬力のある社員たちは、実は「使い捨て」だ。彼らが藪漕ぎを終え、疲れて道端に腰かけていると、切り開いた道はアスファルトできれいに舗装され、エリート社員たちが高級車に乗って通過していく。
そしてエリート君たちの口からは「社長、この道は私が作ったのです。いやあ苦労しましたよ」という声が聞こえてくるのである。
自社内に屈強で馬力のある社員がいない、あるいはそうしたリスクをそもそも負いたくない会社はどうだろう。そうした会社では藪漕ぎを、関係会社や下請けなどの外部業者に丸投げする。そして上手に道が作られれば、手柄はもちろん自分のもの。
同じように舗装された道を高級車で通り抜けながら発するセリフは「社長、この道は私が作ったのです。いやあ苦労しましたよ」となる。失敗すれば関係会社や下請けに責任を押し付ければそれで済む。
「藪漕ぎ」を厭う企業に未来はない
だが、自ら藪漕ぎをすることを厭うて、成果だけを「横取り」する企業に未来はない。新しい事業を開拓していくヒントや問題点は「藪漕ぎ」を通じて得られるものだからだ。新しく切り開く道がやっかいなものであればあるほど、「藪漕ぎ力」で勝負が決まる。
問題が深い「藪の中」にある場合は、目標までの道程ははっきりしていなくとも、ある程度の見極めをして藪漕ぎを始める。すると腕を振り回すその先に問題の所在が見えてくる。
問題というと、それがあたかも最初から明確に存在しているように聞こえるかもしれないが、多くの問題は実は「藪の中」にある。したがって、その問題を明確なものにするにはこの「藪漕ぎ」が必要なのだ。
ところがこの作業を軽んじたり、業者に任せっきりにすると、問題の本質を理解しないままになんとなく「成功した」という事実だけが独り歩きを始めてしまうのだ。