【日向畑遺跡】破壊された真田家のルーツ

真田氏といえば、幸綱(幸隆)以降の三代が有名だが、そのルーツはどこにあるのか。まずは真田氏の足跡をたどってみた。

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幸綱(幸隆)以前の真田氏一族の墓と考えられている日向畑遺跡

 角間川沿いの字日向、松尾古城の南麓一帯に真田家の館跡があったと推定され、かつては常福院という真田氏の菩提寺があったことがわかっている。その寺院の境内と推定される場所で昭和46年に発掘調査を実施した結果、五輪塔や宝篋印塔を墓標とし、火葬骨を納めた墳墓群が発掘された。その内訳は石造五輪塔11基、石造宝篋印塔6基に加え、鉄器、古銭、土器など。全体として23か所の納骨遺構が確認された。

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 これらを分析した結果、室町から戦国時代にかけてのもので、真田幸綱(幸隆)以前の真田一族がこの墳墓跡に葬られたと考えられている。中世墳墓の遺構がここまで良好な状態で保存されていた例は少なく、貴重な遺跡である。

 ただ、不可思議なのは、墓が激しく破壊されていることや、墓穴跡と墓石の数が合わないことである。つまり、何者かによって墓が破壊された後、いくつかの墓石がどこかに持ち去られているということだ。

 一体なぜ、誰が真田家の墓をここまで破壊したのか。諸説あるが、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍がここへ侵攻してきたときに破壊したとする説が有力視されている。戦国時代、その地を征服した者は、自分が新しい支配者であることを民衆にアピールするために旧支配者のルーツ、つまり墓を徹底的に破壊していたからだ。何も墓まで壊さなくても…と思うが、それが戦国の世の掟だったのだ。この遺跡の前に立つと、自然と幸綱(幸隆)以前の真田家の人々に手を合わせてしまう。

日向畑遺跡
●所在地:長野県上田市真田町長角間