【海野幸義戦死の地】「真田三代」はここから始まった
真田氏は東信濃の滋野諸族の名族の1つ、海野氏の血を引く地方豪族で、小さいながらも現在の上田市真田町一帯に勢力を築いた。しかし天文10(1541)年、武田氏・諏訪氏・村上氏の連合軍が滋野諸族の領土、小県郡海野平へ侵攻。真田幸村の祖父、幸綱(幸隆)は滋野三家の一員として合戦に加わるが、武田氏などの猛攻の前に海野氏は敗北。当時の海野氏惣領の棟綱はその息子(孫という説もある)といわれている幸綱(幸隆)と共に上野国(現在の群馬県)へ逃れるが、嫡男(弟という説も)の海野幸義は討死。後に棟綱も上野国で死亡し、海野氏の正統な血脈は滅した。
この合戦で死亡した幸義の碑が上田駅方面から国道18号線の神川にかかる橋を渡って1つ目の信号がある交差点に建てられている。赤地に黒で「神川合戦の地」と書かれたのぼりが目印だ。この場所は神川を渡って海野平へ入る最初の関門なので、激戦が繰り広げられたと考えられている。また、国道沿いには小さな五輪塔が並んでいる。神川を眺めながらこの橋を渡ると、両軍の武者たちがぶつかり合う鬨の声や刀で切り結ぶ音が聞こえてきそうだ。
その後幸綱(幸隆)は武田晴信(後の信玄)に仕え、信濃先方衆となり、晴信の元、村上氏との合戦に参加。晴信がいくら激しく攻めても落とせなかった砥石城を見事攻略するなどして本領の真田郷を奪還。その後も幾多の合戦で目覚ましい活躍を見せ、晴信が死ぬまで家臣として重用され、真田一族の基礎を築いた。そういう意味では群雄割拠の戦国時代にいち地方豪族から戦国大名にまでのし上がった真田家はここから始まったと言っても過言ではないだろう。
海野平古戦場
●アクセス:上田駅から国道18号線を小諸駅方面に車で10分程度、神川を越えて一つ目の信号「蒼久保」村付近。信濃国分寺駅から徒歩7分