【長谷寺】幸綱(幸隆)、昌幸が眠る真田氏の菩提寺

長谷寺(ちようこくじ)は幸綱(幸隆)が開祖の真田氏の菩提寺で、昌幸の時代に整備された。本堂裏手の墓地には真田幸綱(幸隆)夫妻、昌幸が眠る墓所がある。

 天文10(1541)年、海野平の戦いで武田・村上・諏訪の連合軍に敗れた幸綱(幸隆)はまず雲林寺という寺に逃れる。その後、晃運和尚の手引きによって、上州の安中の長源寺にしばらく身を潜める。その後、羽尾幸全、長野業政の庇護を経て、父親を追放して新しく武田家の家督を奪い取った晴信(信玄)の家臣となり、旧領を取り戻した。

 天文16(1547)年、真田の郷に戻ってきた幸綱(幸隆)は、領内に古くからあった種月庵という小さなお堂に長源寺から命の恩人である晃運和尚を招いた。そのお堂をさらに大きく建て直し、「真田山種月院長谷寺」(しんでんさんしゅげついんちょうこくじ)として創建。自らは長谷寺の下にある集落に屋敷を構えて暮らした。現在もその屋敷跡が残っている。

 幸綱(幸隆)の死後、天正16(1588)年、真田昌幸は父の菩提のために諸堂を完備するが、慶長5(1600)年には第二次上田合戦で兵火にかかり、宝暦7(1757)年には火災に遭い、さらに寛保2(1742)年には大洪水で土砂に埋まるなど幾度もの災害に遭っている。

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 元和8年(1622年)、徳川方につき、真田の家督を継いだ信幸(信之)が上田から松代に移封された際、松代に同じ呼び名の「長国寺(ちょうこくじ)」を建立し、長谷寺の6代住職を迎え入れた。長国寺には昌幸や信繁(幸村)の供養塔もある。信幸(信之)は移封先でも真田家の菩提寺をそばに置きたかったのだろう。「谷」を「国」に変えたのは、徳川幕府に気を遣ったからだと考えられている。

 明治23年1月、再三の火災で全山焼失し、貴重なものすべてが灰と化してしまった。

現在の本堂は昭和53年に、庫裡・位牌堂は平成元年に再建、鐘楼は平成19年に建てられたものだ。
境内には立派な枝垂れ桜があり、春には見事な花を咲かせる。
本堂裏手の墓地には幸綱(幸隆)(中央)、幸綱(幸隆)の妻(左)、昌幸(右)の墓がある。
近年、信繁(幸村)の供養塔も建てられた。
墓所の至る所で見られた参拝客が置いたであろう賽銭。真田家の家紋である六文銭の形に配置されている(下写真も)。
 
敷地内には昌幸の重臣・池田長門守の9代先の子孫が寄贈した灯籠が建っている。池田長門守は昌幸が関ヶ原の後、九度山へ軟禁されたときにお供として同行した家臣の1人。ご先祖様が昌幸公に大変お世話になったからと9代先の子孫が灯籠を寄進。家臣の忠節と昌幸の人柄がしのばれるエピソードである。
墓所は静寂に包まれた、うっそうとした林の中にあるので自然と厳かな気持ちになる。

長谷寺
所在地:長野県上田市真田町長4646