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【信綱寺】「真田三代」の二代目になるはずだった男が眠る墓

本堂裏山の墓地には信綱(中央)、その夫人・お北の方(左)、昌輝(右)を祀る五輪塔が建っている。近くに殉死した白川兄弟の墓もある。信綱と夫人の墓は享保2年(1717)、寺の移築に伴い、現在の裏山に移された。昌輝の墓は、昭和60年代にその子孫を名乗る人が福井から真田町役場の教育委員会に訪れ、歴史研究者の検証を経て、新しく建立された。

 真田三代と言えば、真田幸綱(幸隆)、昌幸、信繁(幸村)をイメージする向きも多いだろうが、実は昌幸よりも真田家を背負って立つ跡取りとして将来を嘱望されていた男がいた。それが信綱である。

 天文6(1537)年に幸隆の長男として生まれた信綱は幼少期に起こった海野平の合戦後、父とともに羽尾幸全、長野業政を経て武田家の家臣になる。若い頃から父に似て武芸と知力に秀で、武田家の家臣として父とともに主要な合戦に参加、戦功を上げ、騎馬200騎持の侍大将、武田二十四将の1人に数えられる重臣となった。そして天正2(1574)年5月に信玄の後を追うように幸綱(幸隆)が病死した後、38歳で正式に真田家の家督を継いだ。

 しかし翌天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いで織田軍の鉄砲隊の銃撃により弟昌輝と共に非業の死を遂げる。信綱の首は家臣の白川勘助・解由兄弟が陣羽織に包み、鎧とともに大柏山打越寺に運んで、本堂の裏に葬り、桜の木を植え供養した。その後、白川兄弟は腹を切り、殉死している。その大柏山打越寺が現在の信綱寺である。信綱寺の墓地には真田信綱、その妻・お北、弟・昌輝の墓がある。

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 将来を嘱望されていた信綱と昌輝の死後、真田家の家督はそれほど期待されていなかった末っ子の昌幸が継ぐこととなり、その後戦国大名として大きく成長していく。運命のいたずらというひと言で片付けてしまうにはあまりに皮肉だが、戦国時代には珍しくないことだったのだろう。もっとも、何が結果的に幸せに繋がるか、死ぬまでわからないのは現代でも同じだが。

信綱寺入り口。信綱寺までの道のりがわかる地図を参考にここから登っていく。
しばらく登ると信綱寺の総門である黒門が現れる。文政6年に新築されたもので、門全体が黒っぽいので黒門と呼ばれている。
白川兄弟が信綱の首を埋めて殉死したとされる「墓前の桜」。かなりの古株だが、春になると今でも花を咲かせるという。
信綱寺本堂。そもそもは室町期に、横尾氏の菩提寺として横尾城の東の梅ノ木に建立された好雪斎大柏寺(こうせつさいだいはくじ)という寺。横尾氏滅亡後、真田信綱が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けた。その後、家督を継いだ昌幸が須坂興国寺から順京和尚を招き、長兄信綱の牌所として寺堂を改築し、大柏山信綱寺と改めた。昌幸がここを信綱の墓所としたのは、真田氏の屋敷があったからだと推定される。享保2年(1717)に現在の高台に再建された。宝物館には信綱の首を包んだという血染めの陣羽織などが今も保存されている。

信綱寺
所在地:長野県上田市真田町長8100

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