【信綱寺】「真田三代」の二代目になるはずだった男が眠る墓
真田三代と言えば、真田幸綱(幸隆)、昌幸、信繁(幸村)をイメージする向きも多いだろうが、実は昌幸よりも真田家を背負って立つ跡取りとして将来を嘱望されていた男がいた。それが信綱である。
天文6(1537)年に幸隆の長男として生まれた信綱は幼少期に起こった海野平の合戦後、父とともに羽尾幸全、長野業政を経て武田家の家臣になる。若い頃から父に似て武芸と知力に秀で、武田家の家臣として父とともに主要な合戦に参加、戦功を上げ、騎馬200騎持の侍大将、武田二十四将の1人に数えられる重臣となった。そして天正2(1574)年5月に信玄の後を追うように幸綱(幸隆)が病死した後、38歳で正式に真田家の家督を継いだ。
しかし翌天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いで織田軍の鉄砲隊の銃撃により弟昌輝と共に非業の死を遂げる。信綱の首は家臣の白川勘助・解由兄弟が陣羽織に包み、鎧とともに大柏山打越寺に運んで、本堂の裏に葬り、桜の木を植え供養した。その後、白川兄弟は腹を切り、殉死している。その大柏山打越寺が現在の信綱寺である。信綱寺の墓地には真田信綱、その妻・お北、弟・昌輝の墓がある。
将来を嘱望されていた信綱と昌輝の死後、真田家の家督はそれほど期待されていなかった末っ子の昌幸が継ぐこととなり、その後戦国大名として大きく成長していく。運命のいたずらというひと言で片付けてしまうにはあまりに皮肉だが、戦国時代には珍しくないことだったのだろう。もっとも、何が結果的に幸せに繋がるか、死ぬまでわからないのは現代でも同じだが。
信綱寺
所在地:長野県上田市真田町長8100