●信繁の壮絶な最期
鬼神の如き突撃で家康の首に手が届くところまで迫りながらあと一歩のところで松平軍に阻まれた信繁は、天王寺(茶臼山)方面に退却。安居神社で休んでいるところを松平家臣の西尾久作に発見された。その時、信繁は「わしの首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られたとされる。享年49歳だった。
しかし、信繁の最期には諸説ある。真田家の伝承記録である「真武内伝」によれば、信繁が乗る馬の後ろから引き止める者がいたので、信繁が「吾卜勝負セヨ」と言うと相手は「心得タリ」と乗馬での勝負となった。太刀で2、3度切り結んだものの、信繁はその前の3度に渡る家康本陣への突撃で体中に13カ所の傷を負い、股にも矢傷を受けていたためうまく馬を操れず、落馬した。相手はそれを見逃さず、首を討ち取られた──とある。
また、越前松平家の記録「松平文庫」によれば、(越前松平家)家中の西尾仁左衛門宗次(久作)が、馬で移動中に信繁と遭遇し、「よき敵」とみなして声をかけて勝負を挑んだ。2人は下馬して槍で戦うことになり、西尾が信繁を突き伏せて兜を着けたまま首を討ち取ったという。その場所は安居神社ではなく、生玉と勝鬘の間とされる。西尾は当時50代半ばとされる武田氏の遺臣で、夏の陣では大坂方の武将首13を挙げたという猛将。西尾は信繁の首と知らずに持ち帰り、後に判明して騒ぎになったらしい。家康に声をかけられた際、信繁が激しく反撃してきたが、手傷を受けながらも討ち取ったことを言上したところ、信繁は早朝から合戦していたため西尾と立ち回れるものかと叱責された(「慶長見聞集」「真武内伝」)。西尾が平伏してなにも答えないでいると、家康は「よき首を取ったな」と褒めたものの、西尾が退出後、周囲の者に「どうやら西尾は真田と勝負しなかったようだな」と語ったという(『落穂集』)。だが、西尾の働きは評価され、所領が700石から1000石、さらに1800石に加増されたという(平山優氏『真田信繁』、松原信之氏編著『福井県謎解き散歩』)。
なお、徳川方として参戦していた細川忠興の記録によれば「真田左衛門佐、於合戦場討死、古今無之大手柄」(左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄)と信繁を褒め称える一方で、「首ハ越前宰相殿鉄砲頭取申候、乍去手負候て草臥伏て被居候を取候ニ付、手柄ニも不成候」(信繁の首は越前松平家の鉄砲頭が討ち取ったが、信繁が手負いで休んでいたところだったから手柄にもならない)と、西尾をけなしている。この背景には信繁に対する同情や共感があったのかもしれない。
西尾家には信繁が持っていたとされる采配や薙刀が伝えられていた(福井市郷土歴史博物館保管)。また、西尾家の菩提寺である孝顕寺には信繁を供養した「真田地蔵」が建立され、信繁の鎧袖を埋めたと伝えられている。なお、「真田地蔵」は現在、福井市郷土歴史博物館に所蔵されている(※采配と薙刀の写真は第14回を参照)。
●日本一の兵
夏の陣でも戦場を縦横無尽に駆け巡り、家康に自刃を覚悟させるほど追い詰めた信繁。その獅子奮迅の戦いぶりは徳川方の多くの武将をも感嘆させた。中でも薩摩の島津家久は国許に宛てて大坂夏の陣の戦の顛末を伝えた書状の中で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と激賞している(『後編薩藩旧記雑録』)。(※島津家久が「真田日本一の兵」と書いた書状は第14回を参照)。この時代の歴戦の勇者たる家久に信繁とその兵が賞賛された意味は大きい。これが後世の真田人気に火をつけることになったのは想像に難くない。
最終的には家康を討ち取れず、命運尽きてしまった信繁だが、戦場で知略の限りを尽くして戦い、大きな戦果を挙げ、真田の名を再び天下に轟かせたばかりか、数百年経った現在でも「日本一の兵」として語り継がれる存在になったという意味では、武士としての本懐は遂げたといえるのではないだろうか。九度山で無念の死を遂げた父・昌幸も草葉の陰で喜んでいたに違いない。
安居神社
所在地:大阪市天王寺区逢阪1-3-24
連絡先:06-6771-4932
アクセス:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩6分
取材協力/岩倉哲夫氏、大阪観光ボランティアガイド協会