●信繁生存伝説
ここからは余談だが、信繁の死後についての諸説を紹介しよう。先程述べた通り、信繁は大坂夏の陣で安居神社のそばで徳川方の武将に討ち取られたというのが史実とされているが、戦死したのは別人で、本人はその後も生き延びたとする伝説・伝承も数多く存在する。
最も有名な伝説の1つは、信繁が豊臣秀頼を連れて鹿児島に落ち延びたというものである。平戸の商館長が元和2年(1616)にイギリス東インド会社に送った手紙には「ある者は、秀頼が薩摩あるいは琉球にいると信じています」と記している(『真田幸村』小林計一郎氏)し、「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退きたり鹿児島へ」という京の童歌が残ってもいる。信繁が鬼のようであったというのは本人像からは程遠いが、最後の戦いで家康の本陣に3度突撃した際の鬼神の如き戦いぶりからだろう。
このような伝説の背景には、信繁が影武者を使っていたことや、大坂方の明石全登、大野治房、仙石秀範といった大将クラスの人物の行方が杳として不明であったこと、関ヶ原の戦い後、宇喜多秀家が島津に匿われていたこともあるだろう。
●生き残った妻子の行動が原因?
さらに、紀州橋本の奈良屋角左衛門という商人は生前の信繁と親交があり、信繁が大坂入城の際、碁盤を貰い受けていた。その角左衛門の元に、大坂落城後の翌春から信繁の従者を名乗る人物が訪ねて来て、信繁は生き延びて無事であることを伝えたという。信繁の居場所については語らなかった。5年間は毎年1度は来訪していたが、6年目から来なくなったという。
また、元和2年(1616)の正月から、毎年武士が1人、九度山の昌幸の墓前と屋敷跡を拝し、村内の信繁旧縁の家で1泊して帰ったという。このことが9年間続いたが、10年目から来なくなった。この武士は信繁の代参で、信繁が他界したために代参がなくなったと伝えられている。これらの信繁生存伝説は、生き残った信繁の妻子が、14年間も過ごした九度山を懐かしみ、使者を派遣していたことが変形して生じたと考えられる。信繁が生きていてほしいという庶民の願望が生み出した一種の英雄伝説だろう。
●信繁の家族のその後
大坂落城後の慶長20年(1615)5月20日、信繁の妻子が警固の侍3人とともに浅野長晟の手によって伊都郡四郷付近で捕えられた。この一件は5月24日に長晟から家康側近の本多正純に報告されている(『浅野家文書』)。信繁の妻は、黄金57枚と来国俊の脇差を持っており、これらは徳川方の指示で浅野長晟に与えられたという(『真田幸村』小林計一郎氏)。
信繁の妻と一緒にいた子供は、九度山で生まれた女子の1人と思われるが、人物の特定は難しい。信繁の妻子を警固していた3人の侍とは、信繁の九度山脱出に同行した旧官省符荘の荘官、高坊氏、亀岡氏、田所氏であろう。信繁は夏の陣の戦乱によって退路が塞がる前に、妻子を伊都郡方面に逃亡させるために、地理に詳しい地元の武士を付けたと考えられる。この三家は知行削減と当分の蟄居を命じられたが、後に復帰して家は安泰であった。
信繁の妻はこの後、京都で娘の嫁ぎ先の石川貞清(関ヶ原牢人で、元犬山城主。戦後京都で裕福な商人となっていた)のもとに引き取られ平穏に暮らしたという。この時に大坂から逃れてきた子供も一緒に引き取られたか否かはよくわかっていない。京都の龍安寺塔頭の大珠院には石川貞清夫婦、信繁夫婦の位牌や供養塔があるとされている。