抗がん剤の開発はいまや世界的に頭打ち状態。新薬は30万ドルに達する勢いで値上がりを続け、いかに副作用を少なくするかで各社競い合っています。流行の分子標的薬も、高額のわりに狙い撃ちできるものは少ないようです。そんな中、著者の奥野さんは、がん治療の歴史を塗り替える画期的な抗がん剤に出会いました。
――本書を書こうと思ったきっかけは。
5年ほど前から「なぜ抗がん剤は効かないのか」というテーマで取材をしており、前田浩先生(熊本大学名誉教授・崇城大学DDS研究所特任教授)に話をうかがったのがきっかけです。先生は80年代に開発が進んだ、腫瘍だけに薬剤を届ける「DDS(ドラッグ・デリバリー・システム)」の提唱者。「いますごい抗がん剤を開発している」とおっしゃるので、半信半疑で取材を始めたんです。先生は腫瘍を取り巻く血管が穴ぼこだらけであるのを発見し、その腫瘍だけに薬剤が留まるよう、既存の抗がん剤を高分子にくっつける「P-THP」(Pはポリマー、THPは抗がん剤の「ピラルビシン」)を開発中でした。
P-THPによる治療が始まってしばらくした頃、肺がんでステージ4の瀬山さん(本書第1章に紹介)が寛解に至ったという朗報が入ってきました。P-THPの効果が表れた人の9割近くがステージ4の患者ばかりです。余命数ヶ月と言われた人が、普通に生活しながら、2年3年と延命している事実、また寛解に至る患者さんの例を間近に見て、本当に驚きました。CT画像で腫瘍だらけだった瀬山さんの肺からは、白い影がすっかりなくなっていたのです。
――約3年間にわたる取材で、取材データは分厚いファイル40冊分にもなったとか。
前田先生は海外での論文引用数もトップクラス。2011年には優れたがん研究者に与えられる「吉田富三賞」を、今年は「トムソン・ロイター引用栄誉賞」を受賞し、ノーベル賞候補にもノミネートされています。生物学や医学の知識がなければ、先生に太刀打ちできないので、論文や専門書を必死で読みましたね。本書では開発された抗がん剤の話だけでなく、なぜ人はがんになるのか、なぜ抗がん剤が効かないのかといったメカニズムについても理解できるよう、わかりやすい解説を心がけました。
――ずばり、P-THPの画期的なところは?
それは副作用がないことです。普通、抗がん剤治療を受けると食欲が激減したり、髪の毛が抜けたり、嘔吐などの副作用に苦しみます。しかし、安全性試験を受けた患者さん120人超のうち、約30人の患者さんにお会いしましたが、巻末附録2に登場する山中寛さんの特異な例を除いて副作用があったという人はいませんでした。あったとしてもお腹がちくちくするとか、鬱っぽくなる程度で、従来の抗がん剤の副作用とは比べものにならないレベルです。
副作用がないので、放射線治療や重粒子線治療も同時に併用できます。これはがん治療にとって非常に画期的です。現状では放射線治療を行うと、数ヶ月は抗がん剤治療ができません。免疫が落ちているところへ、さらに免疫が落ちる治療を行うと、命を落とす危険があるからです。従って通常は身体の回復を待ってから抗がん剤を投与しますが、回復を待つ間に腫瘍が大きくなる危険性もある。しかし、P-THPなら副作用がないので、同時併用できるんです。こういう抗がん剤はおそらくP-THPが初めてだと思います。
――どのがんにも効くのでしょうか。
すべてのがんにオールマイティに効くわけではありません。前立腺がんや乳がん、卵巣がんなどホルモン依存性がんにはよく効くことがわかっていますが、胃がんや肺がんなど、効果が未定のものもあります。卵巣がんで腹膜播腫になった場合、外科手術では取りきれないし、普通は抗がん剤治療も効果は限定的ですが、このように散らばったがんにP-THPはよく効きます。