いまから20年前のきょう、1997年3月8日、版画家の池田満寿夫が63歳で亡くなった。60年代、ニューヨーク近代美術館で個展を開いたり、ベネチア・ビエンナーレで大賞を受賞したりと国際的な評価を得た池田は、70年代半ば、あいついで小説の執筆を依頼される。その第1作『エーゲ海に捧ぐ』は77年に芥川賞を受賞、79年には同作を自ら監督して映画化するなど、多才ぶりを発揮した。

芥川賞受賞時の池田満寿夫 ©文藝春秋

 芥川賞に決まったとき、文藝春秋の編集者から「これで運命が変わります」と言われたという。池田は「そんなバカな」と思ったが、事実そのとおりになった。マスコミに引っ張りだことなり、世間にその名が広く知られる一方で、私生活ではこの騒ぎが原因で離婚を余儀なくされる。後年、彼は「これは大変な離婚賞ですよ」と冗談めかして語った(『文學界』1989年3月号)。

 同時期にはこのほか、契約していた画廊とのトラブルなど、さまざまな問題に直面した。池田はそんな自分を「破滅型」と認めつつ、「破滅するエネルギーで前へ進む」とあくまで前向きだった。やがて私生活では、バイオリニストの佐藤陽子という終生のパートナーを得、仕事においても、1983年に陶芸を始めたのを機に新たな境地を拓いていく。後年にいたって、書やコンピューターグラフィックなど、表現範囲はますます広がった。

ADVERTISEMENT

エーゲ海にて ©文藝春秋

 96年12月、軽い脳梗塞で入院したが、すぐに退院し、再び多忙な日々に戻る。このころ、郷里の長野市では、池田満寿夫美術館の準備が進められていた。その館長となった元編集者の宮澤壯佳が、開館記念展での新作の展示方法について、池田本人に電話で意見を求めたことがあった。それまで池田は「生存中に自分の名を冠する美術館ができるとプレッシャーになる」と口癖のように言っていたという。だが、このときは「いいよ、まかせるよ。好きにやってよ」とあっさりした答えが返ってきた。彼が急性心不全で亡くなる、わずか2時間ほど前のことだった(宮澤壯佳『池田満寿夫――流転の調書』玲風書房)。同美術館はこの年4月、オープンしている。

左から青島幸男、佐藤陽子、池田、吉行淳之介(1983年) ©文藝春秋