昨年、新書『1998年の宇多田ヒカル』を上梓して以来、テレビ、ラジオ、ウェブメディア、雑誌などから宇多田ヒカルについてのコメントやコラムを依頼される機会が増えた。原則として、ゴシップ的なものではなく宇多田ヒカルの作品に関することの依頼については前向きに検討するようにしているのだが、中には「御本のプロモーションということで」とギャラがまったく発生しないこともあって、「『御本のプロモーション』と言われても、発売から半年以上経ったらほとんど動かないんだけどなぁ」とか思いながら受けた仕事もある。

 先日、これまで一度も仕事をいただいたことのない女性誌から、宇多田ヒカルについての原稿依頼の連絡がきた。ここ数年、女性誌の売上部数トップを独走してきた30代ママ向けのファッション誌『VERY』である。依頼の内容は「『二時バカ』症候群について書いてもらえませんか?」とのこと。「『二時バカ』症候群」? えっと、宇多田ヒカルの動向に関してはそれなりにアンテナを利かせていますが、何のことを言っているのかさっぱりわからないのですが……。

「聴いた瞬間びっくりして泣きました」

「二時バカ」とは、宇多田ヒカルが昨年9月にリリースした8年半ぶりのオリジナルアルバム『Fantôme』に収録されていた椎名林檎とのデュエット曲、「二時間だけのバカンス」のことらしい。一時期ネット上で大きな話題となったキャッチコピー「母さん、夏の終わりに豹になる!」などを筆頭に、「ハンサムマザー」「イケダン」などなどこれまで数々の造語を生み出してきた同誌のコピーセンスによる略語のはじけっぷりには笑うしかないが、『VERY』のモデルや読者の30代ママの周辺で、本当にその「二時バカ」が昨年から流行っているのだという。毎日仕事や育児に追われるママが、「足りないくらいでいいんです」と強がりながら、2時間だけの自由時間(バカンス)を過ごす。「原稿を書く上での参考に」ともらった読者アンケートによると、「聴いた瞬間びっくりして泣きました」「息抜きも大切だと言ってもらえて安心しました」みたいなエモーショナルなコメントが並んでいる。誌面ではクリスウェブ 佳子さん、中林美和さん、犬山紙子さんによる「二時バカ」鼎談もおこなわれるという。「へーっ!」と驚かずにはいられなかった(特集は現在発売中の『VERY』4月号に掲載。結局自分も寄稿しました)。

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特集「宇多田ヒカル『二時バカ』症候群、あなたも!?」掲載のVERY4月号

テーマは「日常の中に訪れた二時間の非日常」

「二時間だけのバカンス」は、同期(1998年)デビューにして同窓(東芝EMI)の椎名林檎と「ずっと何か一緒にやろう」と思っていた宇多田ヒカルが、ようやくそれを自分の作品の中で実現させた曲だ。共作曲ではなく、宇多田ヒカルが一人で作詞、作曲、プロデュース、そしてプログラミングまで手がけている。「この曲では日常と非日常の危うい関係を表現したかったんです。母であり妻でもある二人なら説得力増すし面白いかなと思って。子供ができるまで『日常』というものがなかったので、日常を手に入れた分、非日常的なスリルを求める気持ちもわかるようになったんだと思います」と公式コメントにもあるように、宇多田ヒカルは椎名林檎をフィーチャリング・ゲストとして招くにあたって、「母であり妻でもある」という共通項から、「日常の中に訪れた二時間の非日常」をテーマに言葉を紡いでいる。作品をリリースした時点で宇多田ヒカルは33歳、椎名林檎は37歳。なるほど、確かに世代的にも生活環境的にも『VERY』ママ世代のど真ん中である。彼女たちの実際のライフスタイルは別として(きっと『VERY』ママとはまったく違うだろうけど)。

 アルバム『Fantôme』の中でも最も歌謡曲的、つまりイントロから大サビに向かってどんどん盛り上がっていくわかりやすいメロディ展開を持ち、その盛り上がりをジャミロクワイやビョークとの仕事でも知られる英国のコンポーザー、サイモン・ヘールがアレンジしたストリングスが彩っていく「二時間だけのバカンス」。そんなポップソングとしての完成度の高さはもちろんのこと、椎名林檎のボーカリストとしての魅力を100%引き出してみせた宇多田ヒカルの手腕と愛情に心を打たれずにはいられない名曲なのだが、その歌詞はリリースから半年近く経った今も自分には解き明かせない、謎に満ちたもの。