いまから60年前のきょう、1957年3月13日、ある翻訳小説をめぐる裁判が、最高裁判所で結末を迎えた。
小説のタイトルは『チャタレイ夫人の恋人』。イギリスの小説家、D.H.ロレンスが1928年に著した長編だ。貴婦人の不倫を描いた同作中における性表現は、イギリス本国をはじめ各国でセンセーショナルを呼ぶ。日本でも戦後まもない1950年に、英文学者の伊藤整の手になる完訳版が小山書店より上下巻で刊行され、ベストセラーとなった。しかし、同年9月、検察庁は、伊藤と出版者の小山久二郎を、刑法上のわいせつ文書販売罪で起訴する。
裁判は翌51年5月、東京地裁で始まった。このとき、検察側の証人はことごとく、作品の思想的価値、性描写の美的価値を認め、そのうえで出版に異を唱えた。ここから伊藤たち被告は、検察側はあきらかに『チャタレイ夫人の恋人』を、わいせつ文書ではなく、戦前の検閲制度で発禁の対象とされた「風俗壊乱の文書」として扱おうとしていると指摘。その態度は、戦後認められた言論・表現の自由を侵すものとして、徹底的に抵抗を示した。
1952年1月の第一審判決は、作中の性表現は高い芸術性により、わいせつ性が昇華されて消滅しているとして、伊藤を無罪とした。一方で、出版や広告のしかたに問題があると、出版者の小山は罰金刑を科される。ところが、同年末の東京高裁での第二審判決では、性的秩序維持の必要性などが強調され、「芸術性とわいせつ性は両立する」との論理から、一転して伊藤も小山とともに有罪とされた。
第二審の立場は、5年後に下された最高裁判決でも支持され、ここに伊藤と小山の有罪が確定する。このとき採られたわいせつ性の判断基準は、その後も長らく日本の裁判を支配し続けた。1964年には、新潮文庫より伊藤訳の『チャタレイ夫人の恋人』が新たに刊行されたものの、一部を削除した形にせざるをえなかった。
伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』が完全な形でふたたび出版されたのは、最高裁判決からじつに39年後、1996年のこと。すでに整は1969年に亡くなっており、子息の伊藤礼が補訳して日の目を見た。このとき礼は、晩年の父が将来を見越して、削除部分の埋め合わせの原稿を用意していたことを明かしつつ、「時代はほんとうに整氏が予測していたその場所まで来ているかどうか」と、親子2代で手錠をかけられたりはしないか、少し懸念も示した(『文藝春秋』1996年11月号)。だが、それは杞憂に終わる。奇しくもちょうどこのころ、同じく不倫の恋を描いた渡辺淳一の小説『失楽園』が話題を呼んでいた。