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休まないことが美化される!? 「子どものため」の呪縛

 過酷なスケジュールの上に、教員には残業代は支払われない。土日の出勤も、(とくに部活動指導の場合には)当たり前である。

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 そして私が懸念するのは、これほどまでに負担が大きいにもかかわらず、それを美談にする教員文化があるということだ。

 たとえば、校長は教育実習生における勤務時間外の活動を、次のように高く評価している。

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教師を志して日々奮闘する姿を、本当に頼もしく感じます。

私が実習生だった頃、子どもがかわいくて仕方なく、先生方からの厳しく温かい指導のもとで、夜遅くまでときには徹夜をしながらも、授業の準備に打ち込みました。それが、その後の教師人生に大いに役立ちました。

(ある学校だよりから。文章の意味内容を保ちつつ、表現を改変した)

今日も教育実習生が、朝は早くから夜は遅くまで、真剣に誠実に、実習に取り組んでいます。教育とは、子どもの可能性を引き出す営み、それがどれほど素晴らしいことか。教師という仕事への憧れとやり甲斐を、しっかりと感じてもらいたいと思います。

(ある校長のブログから。文章の意味内容を保ちつつ、表現を改変した)

 実習生が長時間にわたって励む姿こそが、教師のあるべき像だという。なぜなら、それが「子どもがかわいい」「子どもの可能性を引き出したい」という意志のあらわれとみなされるからである。

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不満を言うことの罪悪感

 なるほど、先述した小学校教員の一日に関する記事においても、最後にその教員は「子どもと過ごすのは楽しいし、教材研究や校務も苦痛だと思ったことはなく、むしろどうしたら授業が楽しくなるか、クラスが盛り上がるかといつも考えています」と、語っている。そして、記事はこう締めくくられている――「これぞ教師の鑑ですね」。

「子どものため」に夢中になって職務に没頭していく。それを教師のあるべき像として讃えるかぎり、どれほど教員の仕事が増えていっても、それをこなしていくことが正当化され、長時間労働の問題はまったく見えてこない。

 教育という仕事は、たしかに子どもの未来をつくりだす、尊い仕事である。だが、だからこそ先生たちには健全な労働者として過ごしてほしい。疲れ切った労働者のもとで、よい教育が生まれるとは、私には思えない。

 私が知る教員は、「匿名にしているけれど、Twitterで仕事の不満を言うことに罪悪感がある」という。先生たちは、本当に熱心に、「子どものため」を思って仕事をしている。教員の働き方改革を進めるためには、学校内部の教員文化に風穴を開けなければならない。そのためには、国や自治体の教育行政による外部からの積極的なはたらきかけが、不可欠である。