いまから50年前のきょう、1967年4月15日、東京都知事選挙が実施され、社会党・共産党の推薦する東京教育大学(現・筑波大学)教授の美濃部亮吉が、自民党・民社党の推す松下正寿(立教大学総長)、公明党の推す阿部憲一(創価学会理事)を破り当選した。このとき2位の松下が約206万票を獲得したのに対し、美濃部は約220万票と僅差での勝利であった。
美濃部は、「天皇機関説」で知られる憲法学者・美濃部達吉の長男で、経済学者としてNHK教育テレビで番組を担当するなど、選挙前より知名度は高かった。美濃部陣営はこのとき徹底したイメージ選挙を展開する。ブルーと白の「青空バッジ」を70万個も売り、選挙資金とした。また、このころNHKの連続テレビ小説『おはなはん』に主演して人気を集めていた樫山文枝と美濃部のツーショット写真が載ったチラシは配るそばからなくなった(岡田一郎『革新自治体』中公新書)。当人のテレビ慣れした話し方、「ミノベ・スマイル」と呼ばれた持ち前の笑顔も、都民に好印象をもたらす。
就任後も、マスコミを活用して世論を味方につけ、自らの政策を推し進めていく。とくに公害対策や福祉政策などでは国に先んじ、自民党政権にも少なからぬ影響をおよぼした。ちなみにフォークグループ、ソルティー・シュガーによる当時のヒット曲「走れコウタロー」(1970年)の間奏で、美濃部の口調を真似た語りが入るが、これは彼の施策のひとつ公営ギャンブル廃止を皮肉ったものであった。それでも美濃部人気は高まるばかりで、1971年の都知事選では約362万票を獲得、自民党が擁立した前警視総監・秦野章に大差をつけて2選を果たす。
だが、73年の石油危機を境に低成長期に入ると、それまで潤沢な税収に支えられてきた美濃部都政に陰りが見え始める。しだいに「バラマキ福祉による都財政破綻」といったイメージが、マスコミを通じて浸透していった(御厨貴『東京 首都は国家を超えるか』読売新聞社)。75年の都知事選では自民党の石原慎太郎を相手に辛勝するも、3期目は財政問題をめぐり自治省と対立、最終的に美濃部は敗北する。79年の都知事選に美濃部は出馬せず、革新候補の太田薫も応援しなかった。このとき当選したのは、行財政改革を訴えた元都副知事の鈴木俊一であった。
美濃部は、マスコミを通じて世論を味方につけ政策を推進しながらも、後年にいたっては逆にマスコミから批判され、失速していった。こうしたパターンは、以後も都知事のみならず多くの政治家が踏襲している感がある。