いまから140年前のきょう、1877(明治10)年4月16日、札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭ウィリアム・クラークが、契約期限を迎え、札幌をあとにした。クラークは米マサチューセッツ農科大学の学長で、前年8月の札幌農学校の開校にともない赴任していた。
この日の朝、農学校の職員・生徒一同は、クラークの官舎だった開拓使旧本陣の前に集まり、記念撮影をした。その後、馬上の人となった恩師を、みなもおのおの馬に乗って見送る。千歳街道をひた走り、札幌の南24キロにある島松駅(現在の北広島市島松)に達すると、クラークは馬を止め、生徒らと休憩した。しばし思い出を語らい、尽きぬ名残を惜しみながらも、ついに別れの時が訪れる。クラークは教え子たち一人ひとりと握手を交わし、「諸君、どうか一枚のはがきでもいいから、時折消息を伝えるよう忘れないでくれたまえ」と繰り返し言うと、ふたたび馬にまたがった。このとき、彼が叫んだとされる「Boys,be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という言葉はあまりに有名だ。
このあと、クラークは室蘭経由で4月19日に七重官園(現在の七飯町に置かれた農業試験場)に到着、25日に函館から海路で長崎に向かった。その後瀬戸内海を渡って神戸に上陸し、しばらく大阪・京都を見物すると、5月14日には神戸を発ち海路で横浜へ移動、24日、ついに帰国の途に就く(佐藤昌彦・大西直樹・関秀志編・訳『クラークの手紙 札幌農学校生徒との往復書簡』北海道出版企画センター)。
クラークが離日したのはちょうど西南戦争の最中だった。彼を農学校に招聘した開拓長官の黒田清隆も、その少し前に、西郷隆盛軍の鎮圧のため熊本方面に出征していた。クラークは札幌を去るにあたり、黒田に双眼鏡を贈ろうと、屯田兵を率いて出征する堀基(准陸軍大佐・開拓大書記官)に託す。結局、堀が陣に入ったときには黒田は帰京しており、渡すことはできなかったものの、双眼鏡は戦争でおおいに役立ったという。9月に戦争が終わったのち、ようやくこれを受け取った黒田は大変喜び、クラークにラッコの毛皮を贈っている(逢坂信忢『クラーク先生詳伝 第三版』大空社)。
帰国後、クラークはマサチューセッツ農科大学に復職するも、留守のあいだに大学は財政難に陥っており、翌78年にはその責任をとって学長を辞任。晩年は、事業に失敗するなど不遇だったようだ。1886年3月9日、59歳で亡くなるまぎわには、「札幌9ヵ月の生活こそ私一生の慰めである」と言ったと伝えられる(蝦名賢造『札幌農学校』図書出版社)。