先日、フィギュアスケートの浅田真央さんが現役を退くことが発表されました。アスリートの宿命、それはいつか引退の日を迎えるということ。しかし「浅田真央現役引退」の報はスケートファンのみならず、多くの人たちの心を大きく大きくかき乱しました。
稀代の天才スケーターでありながら、オリンピックで金メダルが取れなかったこと。そのスケート人生が決して平たんなものではなかったこと。ピンク色の衣装で、『くるみ割り人形』をこの上なく楽しそうに、愛らしく踊っていた15歳の真央ちゃんが、その後幾度となく晒された過酷な運命を思い出して。「真央ちゃん、お疲れ様」「ありがとう」「幸せになって」……どれも違う気がする。最もしっくりくる言葉はなぜか「ごめんなさい」だったのです。
「勝敗にかかわる一打」が出ない
WBCで日本の4番として申し分のない働きをしてくれた筒香。ペナントレースでの活躍を疑いもしないまま、シーズンに突入しました。しかし筒香のバットからあの大気を切り裂くような「バキッ」という音が全く聞かれないんです。いや、ホームランじゃない、筒香が最もこだわる「勝敗にかかわる一打」が出ないのです。たまに勝っても、全然勝った感覚がないんです。わかってる、野球は9人でやるもの。晴れの日があれば雨の日もある。筒香が打たない日だってありましょう。
この球団を長年応援して、何日も何日も降り続く雨を「雨降って地固まる」とポジティブに捉え、梅雨の晴れ間よりレアな勝利を優勝のようにありがたがる、そういうメンタルが養われました。絶望的な連敗も、3杯くらいのハイボールで脳内から消し去る匠の技を身につけました。しかし、今は違う。誰よりも勝ちにこだわる男が、ランナーを返すことにこだわる男が、悲しいほど沈黙を続けている。
筒香に背負わせてしまった途方もない「希望」
4月12日、対阪神戦。序盤に今永が打ち込まれ、最大で5点差がついていました。でも「今日はもうダメだね」と思わせないのは、筒香がいるから……最もそれを信じているのは、他ならぬチームメイトなのだと思わせる場面が、9回にやってきました。ツーアウト、点差は3点。しかし桑原がライトへ執念のようなヒットを放ち、そこから流れが変わりました。
筒香の前で誰よりもチャンスメイクをしてきた梶谷がそれに続き、一、二塁。簡単にひっくり返せる点差じゃない。でも何とか筒香に回したい。それは叫びのような反撃でした。筒香が決めれば、このチームは勝つんだから。筒香が決めなきゃ、勝てないんだから。ロペスのタイムリーで2点差。チームメイトの足掻きが筒香の5打席目を引き寄せました。もう、祈ることしかできないよ。勝ってほしい。筒香が打って、勝ちたい。
筒香のバットは空を切りました。ゲームセット。その時、負けてしまった現実より先に、筒香自身が抱いているであろう「ふがいなさ」の暴走に怯えました。私たちがこの絶対的4番に背負わせてしまった途方もない「希望」の代償に怯えました。筒香が打たなきゃ誰が打つ……それが呪いのように筒香の体を縛り上げているんじゃないか。野球を愛し、野球に愛されたこの人から自由と喜びを奪っているんじゃないか。そしてこんな外野の心配が筒香の自尊心を傷つけているんじゃないか。ウロウロと心はさまよい、揺れていました。自分の無力さを嘆くことくらいしか、筒香が今感じている「孤独」に寄り添う方法が見つからないんです。
筒香は「悔しさ」を思い出させてくれた光なのだ
真央ちゃん引退のときに感じた「ごめんなさい」というあの気持ち。あなたを期待でがんじがらめにしてごめんなさいという気持ち。しかし引退会見での真央ちゃんのこの言葉に、私は自分の思い上がりを恥じました。
「この道を選んだのも自分ですし、自分で望んだ道なので、つらいと思ったことはありません」
この才能あふれるスケーターは「ただ楽しくスケートをする」人生ではなく、トリプルアクセルという、難易度もリスクも高い、でも世界で浅田真央にしかできない技で勝つことを求めたのだと。あの屈託ない笑顔の裏にある、誰よりも何よりも「自分に負けたくない」という気高さに、私はとてつもなく惹かれたのでした。勝負の仕方としては不器用かもしれない、だけど私にはこれしかない。その負けん気に。
「なんでベイスターズが好きなの?」「あんな弱いのに」。ずっと、人から貶され、バカにされ、時に憐れみすら受けてきたベイスターズファン。筒香は本当に、本当に、久方ぶりにこのチームに差した「光」。負けることに慣れてしまった私たちに「悔しさ」を思い出させてくれた光。その光が自分自身の一打で勝つことを求めている。真央ちゃんがトリプルアクセルでの勝ちにこだわったように。だったら私たちはそれに一喜一憂し、勝って喜び、負けて悔やむ。それしかないのですね。
ハマスタを覆っていた雲から、一筋の光が差し込み、それはやがて大きく広がりベイスターズを包むと私は信じています。筒香、それは君が見た光、僕が見た希望、なのだから。
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※「文春野球コラム ペナントレース2017」実施中。この企画は、12人の執筆者がひいきの球団を担当し、野球コラムで戦うペナントレースです。