Q 池上さんは希望して社会部の記者になったのですか?
池上さんは、かつて社会部の記者をされていましたが、政治部、経済部、国際部、スポーツ部、文化部、科学部など数ある中で、希望されて社会部に配属されたのですか。他の部署に行きたいと思ったことはありましたか。(20代・女・記者)
A きっかけは、ロッキード事件でした。
NHKに入ると、必ず地方勤務をします。私は学生時代、ユースホステルに泊まる貧乏旅行で全国を回りましたが、山陰だけは行ったことがありませんでした。そこで山陰勤務を狙った結果、松江放送局に赴任しました。
大学が経済学部だったことから、将来は経済部に勤務したいと希望していたのですが、松江放送局時代にロッキード事件が発覚しました。それまで東京地検特捜部が摘発する事件はほとんどなく、当時の新聞社・テレビ局は、東京地検特捜部の取材に慣れていませんでした。このため、東京地検特捜部の検事が容疑者を連行してくるのを東京地検前で待ち構えるしかありませんでした。
各社は東京の社会部記者だけでは手が足りず、全国の支局・放送局から若手記者を応援に呼び集めました。私も松江放送局から応援に駆り出されたのです。
ここで社会部の先輩記者の仕事ぶりを見て、社会部記者に憧れます。「正義の味方」のように見えたのです。純情でしたね。それ以降、「社会部に行きたい」と言い続けました。後で聞くと、私を政治部に呼ぼうという話もあったようですが、本人の希望が通り、社会部勤務になりました。
社会部では、警視庁捜査一課、捜査三課を担当する「事件記者」を振り出しに、気象庁担当として地震や火山のメカニズムを勉強。消費者問題も担当して消費者団体に知人が多くできました。その後、当時の文部省を担当して教育問題を取材。昭和天皇が病気で倒れると、宮内庁に応援に行かされます。
こうした仕事をしたうえで、首都圏ニュースのキャスター、「週刊こどもニュース」キャスターを担当しました。こうした経験が、いまの私を形作っています。
東京での振り出しが社会部で本当に良かったと思っています。
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