Q『教育勅語』や、『我が闘争』が教材になることをどう思いますか?

『教育勅語』や、『我が闘争』を教材として認めるとの政府答弁が批判されています。なぜ今、この2つが敢えて教材として取り上げられようとしているのでしょうか。

 批判的な見方や、歴史的な背景を踏まえた上で教材となる分には、別に教材にしても良いのではないかと思うのですが、なぜこれほど反発が強いのでしょう。教科書のあり方について、池上さんはどのように考えますか。(20代・女・学生)

A ここでは『教育勅語』と『我が闘争』を区別して論じましょう。

©文藝春秋

 実際の政府答弁は、民進党の議員が、「『我が闘争』を批判的な視点や歴史的事実として紹介する場合以外でも、この書物の一部を抜粋して道徳や国語の教材として用いることは、否定されないのか」と質問したものに答えたものです。

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 これに対する閣議決定は、「人種に基づく差別を助長させる形で使用」することは許されない、というものです。

 ところが、この答弁について、時事通信が、次のような記事を配信しました。 

〈政府は14日の持ち回り閣議で、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの自伝的著書「わが闘争」の教材使用について、「教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校設置者の責任と判断で使用できる」とする答弁書を決定した〉

 これは4月14日に配信された原稿の前半部分です。後半部分は、次のようになっています。

〈答弁書では、「同書の一部を引用した教材を使用して、執筆当時の歴史的な背景を考察させる授業が行われている例がある」と紹介。その上で、「仮に人種に基づく差別を助長させる形で使用するならば、同法等の趣旨に合致せず、不適切であることは明らかだ」と指摘し、そうした指導があった場合は「所轄庁や設置者において厳正に対処すべきものだ」としている〉

 全部を読めば政府答弁の趣旨は明らかなのですが、前段部分だけだと、政府が『我が闘争』を容認しているかのように読めてしまいます。この解釈がツイートなどで一人歩きしてしまったようです。『我が闘争』の扱いに関して、政府はびっくりするようなことは言っていないのです。あなたの言う通りです。

 さらに、政府がわざわざ閣議決定したわけではありません。国会議員が「質問主意書」という形で出した質問には必ず閣議決定した答弁を出さなければならなかったので、この答弁が出てきたのです。

 では、『教育勅語』はどうか。そもそもは(これは本来の意味で使っています。安倍首相は「基本的に」という意味があると誤解していますが)森友学園が幼稚園児に『教育勅語』を暗唱させていたことです。これを知って「感動」してしまった首相夫人がいたことや、「教育勅語に流れている核の部分、そこは取り戻すべきだと考えている」と答弁した防衛大臣がいたことから、安倍内閣として「この発言者は守らねば」と考えたのでしょうね。政府答弁は、以下のようになりました。

「教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校の設置者の責任と判断で使用できることとなっており、その使用状況については、政府が一律に把握する仕組みとなっていない」と述べています。つまり、森友学園の暗唱は「校長や学校の設置者の責任と判断でできる」と責任逃れをしたのですが、この答弁には批判が相次ぎました。

 そこで、さすがにこれではまずいと考えたのでしょう。以下の文章がつきました。

〈これが教育における唯一の根本として位置付けられていた戦前の教育において用いられていたような形で、教育に用いることは不適切であると考えている〉

 つまり、『教育勅語』は歴史的文書として扱いなさい、という意味でしょう。こういう答弁なら、問題になりません。最初からこう答えておけばよかったのです。答弁が何か歯切れが悪い。実は本音では『教育勅語』をいいと思っているんじゃないの、と詮索されたのです。

 幼稚園児に暗唱させずに、自分の頭で判断できるようになった段階で歴史的意味を考えさせる材料として扱えばいいのです。

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