森友学園は愛国コスプレ路線の極み
保守の記号化。愛国のコスプレ化。これが今日われわれの目の前で起きている現象である。
保守はここ数年ですっかり「勝ち組」となった。今日、勝ち馬に乗らんとするものは、ことごとく保守を名乗ろうとする。そのため、手っ取り早い保守化の手段が求められ、その記号化、コスプレ化が急速に進んでいる。
「日の丸?」と訊かれれば「賛成!」と脊髄反射し、「君が代?」「道徳教育?」「軍歌?」「御真影?」と訊かれれば同じような反応を返す。こうして点数を稼ぎ、「おめでとう、あなたも今日から保守だ」と認定してもらう。なんたる手軽さ。もはや複雑な思想や歴史の知識などは必要とされない。保守は、一種の○☓ゲームへ還元された。
2月以来話題の森友学園の愛国教育は、こうした愛国コスプレ路線の極みであった。そこから派生した、「教育勅語」の擁護論のたぐいもまたしかりである。
今日の「教育勅語」擁護論者は、あやしげな現代語訳を振り回して「現在にも通用する」などといい、ときに原文にはない「道義国家」ということばさえ持ち出してくる。
原文を読んでいないのか、という指摘に意味はない。
かれらにとって、「教育勅語」は愛国コスプレの衣装であり、保守化ゲームの記号にすぎないのだから、読んでいないほうがむしろ自然なのである。
「教育勅語」擁護論が拡散した理由
それにしても、こうした「教育勅語」の擁護論が、政権中枢からもでていることには驚きを禁じえない。まさに保守の劣化というほかない。
そもそも「教育勅語」擁護論は、自民党のなかでも、文教族の一部が熱心に唱えていたものにすぎなかった。
族議員といえば、かつて農林族、建設族、商工族が御三家と呼ばれた。これに対し、金にも票にもならない文教族はつねに日陰者だった。そのため「教育勅語」擁護論は、けっして主流の議論ではなかった。
田中角栄が1974年7月の参議院選挙前に「教育勅語」を再評価したこともあったが、それはあくまで第一次石油ショック後の経済問題から目をそらせるためのブラフだった。
では、ここへきてなぜ「教育勅語」擁護論は、文教族の枠を超えて広がっているのだろうか。
その原因は、90年代以降、経済が低迷するなかで、イデオロギー論争(=金がかからない)に強い文教族の影響力が相対的に大きくなったこと、そして敵対者である日教組が弱体化したことがあげられる。
つまり、それまで無視され、抑制されてきた「教育勅語」擁護論が、時代の変化により、荒削りなまま、とめどなく噴き出しているわけである。
荒削りな分だけ、愛国コスプレとも相性がよいから困りものだ。