脊髄反射的な記号に
「軍歌を歌う幼稚園」のおかげで、「教育勅語」がひさしぶりに話題だ。
戦後「教育勅語」は、保守派によって定期的に再評価されてきた。それは、憎むべきライバルとして「教育基本法」が存在したからである。
保守派は「教育基本法」を排撃しようとして「教育勅語」を持ち出し、革新派は「教育勅語」を振り払おうとして「教育基本法」を擁護した。
だが、こうした保革対立は、いつしか「教育勅語」と「教育基本法」を脊髄反射的な記号に変えてしまった。保守派なら「教育勅語」に賛成、革新派なら「教育基本法」に賛成、というように。
「軍歌を歌う幼稚園」の「教育勅語」暗唱などは、その果てに発生した珍現象のひとつであろう。
とはいえ、「教育勅語」と「教育基本法」ははじめから対立関係にあったわけではない。その歴史をひもといてみよう。
教育基本法「押し付け」論は間違い
「教育基本法」は、占領下の1947年3月に公布された。そのため、「日本国憲法」と同じく、GHQの「押し付け」ではないかとの批判がある。
だが、実際はそうではない。
そもそも戦後の教育改革は、なにからなにまでGHQの一方的な「押し付け」ではなかった。日本人は、むしろ積極的にGHQに働きかけ、その力を利用して、戦前から計画されていた教育改革を実行しようとした。
いわゆる「押し付け」論は、当時の日本人のしたたかさ、たくましさを低く見積もりすぎている。
戦後日本における教育の理想像を示した「教育基本法」にいたっては、完全に日本側の発意だった。
発案者は、第一次吉田茂内閣の田中耕太郎文相である。あるいは、文部省参事の田中二郎東京帝大教授が立案し、これを田中文相が推進したともいわれるが、いずれにせよ、日本人が発案者なのは揺るがない。
法案の内容は、1946年後半に、首相の公的諮問機関である教育刷新委員会の第一特別委員会において中心的に審議された。GHQのチェックも入ったが、基本的に日本人の手で内容が作られ、検討された。しかも、当時は明治憲法下だったので、枢密院と帝国議会に提出されて、最終的な成立をみた。
このように、「教育基本法」がGHQの「押し付け」でなかったことは明白である。