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吉田茂の教育基本法批判

「教育基本法」は、公布された当初「教育勅語」とかならずしも対立関係になかった。

「教育勅語」が衆参両院で排除または失効確認されたのは、1948年6月のこと。1年余だが、「教育基本法」と「教育勅語」は並存していた。

 また、当時の文部省や教育刷新委員会には「教育勅語」の擁護者が多かった。なにを隠そう、当の田中文相でさえそうだったのである。

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 では、いつから「教育基本法」と「教育勅語」は、対立関係になったのだろうか。

 変わり目として象徴的なのは、第三次吉田内閣のときだ。

 吉田首相は1949年5月、私的諮問機関として文教審議会を設置し、その席上で「教育基本法」を「民主主義国ならどこの国にも通じることを常識的にならべて法律にしたまでのことで、これだけでは不十分だ」と批判し、「教育勅語にかわる教育宣言のようなものをつくってはどうか」「歴史と伝統のある日本人全体に感銘を与えるような血の通った教育信条のようなものがほしい」と提案したのである(八木淳『文部大臣列伝』)。

 吉田の意を受け、同内閣の文相に就任した天野貞祐は、「教育勅語」を再評価し、べつのかたちで復活させたいと発言。1951年11月、その具体例として「国民実践要領」の大綱を発表した。

天野貞祐 ©文藝春秋

 「国民実践要領」は、「天野勅語」などと批判されて白紙撤回に追い込まれた。ただ、この過程で、保守派にとって基本的な対立構図ができあがった。

 すなわち、抽象的で無国籍な「教育基本法」と、具体的で日本固有の「教育勅語」(とその後継者)、これである。

防波堤として使われた教育基本法

 その一方で、革新派のあいだでは、はじめ「教育基本法」の評判はよくなかった。文部省や諮問機関が密室的に作った法律であり、美辞麗句を並べただけで具体性に乏しいと批判さえされた。

 ところが、1955年11月に自民党が発足し、中央集権的な教育制度の整備に取り組みはじめると、「教育基本法」はこれに対抗する有力な防波堤とみなされるようになった。「教育基本法」の意義は、あとから「発見」されたのである。

 その後、保守派は「教育基本法」改正をなんども試みた。すると、革新派はそのたびに同法の擁護にまわった。ここに「教育勅語」に対する賛否が重なり、「教育基本法」と「教育勅語」のライバル関係は完成したのである。

改正教育基本法の「使い方」

 長引くライバル関係は、いつしか両者を脊髄反射的な記号に変えた。2006年12月、第一次安倍晋三内閣のもとで「教育基本法」が改正されたが、国民の関心は概して低かった。

 革新派(現代風にいえばリベラル派)は、保守派による「改正教育基本法」に批判的だ。たしかに「我が国と郷土を愛する」などの文言は入った。ただ、それ一辺倒ではなく、他国の尊重なども加えられ、政治的中立の条項もそのまま残された。

教育基本法の改正に反対する集会。日比谷野外大音楽堂で開催された ©共同通信社

「改正教育基本法」は、「教育勅語」にくらべれば、多様性や国際社会への配慮を含み、はるかにまともな内容である。あの安倍政権のもとでこれで済んだのは、戦後民主主義の成果とも読み替えられる。

 そこで、従来の保革対立の構図をリセットし、「改正教育基本法」をうまく読み解き、利用していく。現実的な対応として、これが求められているのではないだろうか。

 かつて左翼系の教育を批判するために用いられた「教育の政治的中立」は、今日「軍歌を歌う幼稚園」の件で、皮肉にも、右翼系の教育を批判するために用いられている。「改正教育基本法」をこのように使うこともできるはずだ。

 われわれは、今回の事件を奇貨として、「教育基本法」の歴史や意義にあらためて関心をもたなければならない。そうしなければ、「教育勅語」は脊髄反射的な記号としてなんどでもよみがえるだろう。