ジェームズ・ダイソン(ダイソン創業者兼チーフエンジニア)©共同通信社

 1999年に英国の本社でインタビューした。噂に違わぬ変人だった。93年に発売したサイクロン式の掃除機が英国で大ヒットし、欧州では気鋭の起業家として注目を集めていた。

 ところが、経営の話にはほとんど乗ってこない。何を聞いても「はあ」「うん」。これは困ったと思い、話題を掃除機に振ったとたん、堰を切ったように喋り始めた。サイクロンの遠心力でゴミと空気を振り分ける機構が、紙パック式の従来の掃除機に比べどれだけ優れているかを延々と語り続ける。秘書が途中で止めなければ3時間を超えるところだった。

 当時から肩書きはCEO(最高経営責任者)ではなく創業者兼チーフエンジニア。ここにダイソンの心意気が込められている。

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 47年生まれ。工業デザイナーとして設計事務所で働いていたが、78年に「サイクロン式の掃除機」を思いつく。

「紙パック式の掃除機はゴミがいっぱいになると吸引力が落ちるだろ。あれがどうしても嫌でね」

 会社を辞めるほどの理由とは思えないが、とにかくその日から自宅のガレージにこもり、開発に取り掛かった。

 ここからがすごい。仕事を辞めてから5年間、開発に没頭したのだ。その間、作った試作機は実に5127台。デザイナー時代に取得した特許を売って手に入れた数百万円が手持ち資金だったが、それも早々に底をつき、妻が美術教室を開いて家計を支えた。一号機が完成したのは83年である。

 ダイソンは試作機と設計図を携えて、欧州や日本の大手電機メーカーを訪ね歩いた。しかし「今更、掃除機か」と見向きもされない。ようやく85年に日本の中堅電機メーカーに採用され、「Gフォース」の商品名で発売された。

 ところがこれが売れない。掃除機の吸引力を数字で示しても、顧客は一向に反応しなかった。流れが変わったのは90年に入ってから。発想を変え、「紙パックのいらない掃除機」という売り出し方にした。消費者は紙パックを取り替える手間とコストに不満を感じていたのだ。

 日本でいち早くサイクロン式掃除機の可能性に気づいたのは、テレビ通販のジュピターショップチャンネルだった。まだ家電量販店の棚に並んでいない時代から、紙パック不要の便利さを根気よく消費者に訴えた。ダイソンは無名時代に応援してくれたジュピターショップに恩義を感じており、来日すると同社を訪れる。

 光明が見え始めた93年、ダイソンは勝負に出る。ダイソン・リミテッドを設立し、英国で自前の生産工場と開発センターを立ち上げ、自社ブランドの「DC01」を発売した。

 そこからの快進撃はよく知られている。今や世界最大の掃除機メーカーであり、2016年の売上高は前年比45%増の25億ポンド(約3500億円)、利払い・税引・償却前利益は41%増の6億3100万ポンド(約888億円)。

 09年の発売時に世間をアッと言わせたのが、羽根のない扇風機「エアマルチプライアー」だ。リングの中に空気を取り込み、円形開口部から吹き出す仕組みだが、何もない空洞から風が送られてくる不思議な機械を見た人は、必ず一度はリングの中に手を入れる。

 こうした斬新な製品を生み出すため、ダイソンは全従業員の半数にあたる3500人の技術者を擁し、年間約500億円を研究開発に投じている。利益の過半をR&Dに費やすわけだが、こんなことが許されるのは同社が非上場企業であるからだ。

 ダイソンが会社の立ち上げで金策に奔走した頃の英国は、自動車大手のローバーの一部が独BMWに買収されるなど、製造業の退潮が著しかった。銀行や投資家は、マネーゲームに夢中で、「モノ作り」は見向きもされなかった。

「エンジニアリングは最も有益でエキサイティングな職業の1つ」と考えるダイソンは、金融偏重の世相に危機感を抱き、02年にエンジニア教育を支援するジェームズ・ダイソン財団を設立した。

 ダイソンは、雑誌WIREDのインタビューでこう語っている。

「失敗とは、今後解決されるべき問題にすぎない」

 発明王エジソンが遺した「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」という言葉に通ずるものがある。