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過剰な“お気持ち忖度”の行き着く先

 今上陛下は多くの日本人から敬愛されており、お気持ちは大事にしたいと私も思うが、しかしだからといって、陛下のお気持ちを制度変更に直接持ち込んではならない。天皇の意思をもとに制度を変えてしまえば、それは憲法で禁止されている「国政に関する権能」になってしまう。考えてみればあたりまえのことで、インターネットではさすがに批判が多かった。「日本リベラルが皇道派に」なったと評した意見には、失礼ながら少々笑ってしまった。とはいえここで考えるべきなのは揶揄ではなく、左派からこのような忖度、政治利用の方向性が出ていることの不思議さである。

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 そもそも左派は護憲であり、もともとは天皇制にも批判的だった。たとえば日本共産党中央委員会は、今でもはっきりと「天皇制のない民主共和制をめざす」としている。

 護憲派であれば、天皇の政治的な発言を肯定的に評価すべきではない。なぜならそのような状況を放置すれば、天皇の発言が政治的な権威になってしまうからだ。しかし護憲派であるはずの左派は、そのことになぜか無頓着である。無自覚なのかもしれない。

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 日本の政治的議論には、「清浄と穢れ」「清らかな善と、穢れた悪」のような二分意識が底流にある。55年体制の時代の「市民は善であり、大企業や政府は悪である」というようなメディアのわかりやすい勧善懲悪がそうだ。『「当事者」の時代』(光文社新書)にも書いたが、そこで持て囃されていたのはリアルな市民ではなく、あくまでもメディアの人間が想像の共同体の中で仮構した、自分たちにとって都合の良いカギカッコつきの「市民」である。

 しかし21世紀に入ると、ネトウヨとも揶揄された新しい保守勢力が台頭してきて、必ずしも「市民」が画一的な存在でないことがあからさまになってくる。そういう中で、「市民」を清浄な存在として持て囃すような単純な構図が成り立たなくなってきた。

 そういう混乱の延長線上に、「最終的に信用できるのは、決して穢れることなく、つねに清浄であり続ける天皇陛下である」という感覚が現れてきているのかもしれない。陛下は、人々が求める清浄さを勝手に仮託され、忖度されているのではないか。

 これはまさに、皇道派の考え方そのものだ。昭和初期、「腐敗した政治家や官僚が清らかな天皇の存在を覆い隠している」という皇道派青年将校たちの思想が暴走し、1936年の二・二六事件を引き起こしたのである。

 先日、放送大学教授の原武史さんと月刊誌「潮」で対談した。7月5日発売の2017年8月号に対談の内容は収録されるので、くわしくはそちらを読んでほしいが、この「左派の天皇忖度」問題も話題にのぼり、原さんが儒教の影響を語っていらっしゃったのが非常に興味深かった。徳のある君主がその徳によって民を治めるべきであるという徳治主義が儒教にはあって、日本の政治にはそういう考え方がどこかに内在されている。

 近代化の中でそういう儒教的精神は覆い隠されてきたが、20世紀の近代の枠組みそのものが衰退していく中で、隠れていた儒教的なるものが顕在化してきたのかもしれない。そういう内在的な意識は左右を問わないし、明確に意識もされていない。そこに、無自覚な天皇忖度の秘密が隠されているような気もする。なんのことはない、日本は150年かけて近代化の道を乗り越えてきたと思ったら、再び近代以前の「穢意識」や「儒教精神」に回帰しようとしているのだ。

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