横綱・稀勢の里は、きょう7月3日、31歳の誕生日を迎えた。第72代横綱に推挙されたのは、今年1月の大相撲初場所で初優勝を決めたあと。たった1回の優勝での横綱昇進は時期尚早という声もあったが、続く3月の春場所でも賜杯を手にし、批判をはねのけた。

 1986(昭和61)年、茨城県出身。本名・萩原寛(ゆたか)。もともとは野球少年で、中学3年のときには強豪校からスカウトの声がかかるほどの逸材だった。しかし「野球を続けても自分の実力ではプロになるのは難しい」と判断し、相撲の道に進むことを決めたという(『文藝春秋』2017年3月号)。中学卒業後、鳴戸部屋に入門し、元横綱・隆の里の鳴戸親方の厳しい指導を受けながら、めきめきと頭角を現した。17歳9ヵ月(2004年5月)での十両昇進、18歳3ヵ月(同年11月)での新入幕は、いずれも貴花田(現・貴乃花親方)に次ぐ史上2位のスピード出世記録である。2006(平成18)年7月には、20歳の誕生日を目前にして新三役に昇進した。

 だが、新三役昇進から大関昇進までには約6年かかった。2011年11月、所要42場所目での昇進は、史上5番目のスロー記録である。この直前、恩師の鳴戸親方を亡くしている。横綱昇進にはそれからさらに5年あまり。新入幕から73場所での昇進は、昭和以降でもっとも遅い記録だった。稀勢の里はそんな自身を「早熟で晩成という珍しいタイプ」と称する。

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 横綱になるまでには、あと一歩というところで優勝を逃すことも少なくなかった。しかし、横綱昇進の使者を迎えた記者会見で、稀勢の里はこう語っている。

「この一年で成長したと思います。もちろん去年だけではないけれど、その結果も経験もそれが生かされての初場所(の優勝)だったと思います。先場所(九州場所)あたりから気持ちの部分でも落ち着いて、平常心で相撲が取れていました」(『文藝春秋』前掲号)

 去る5月の夏場所は、春場所で負ったケガが完治しないまま出場するも、11日目より休場、6勝5敗に終わった。6月中は治療に専念したという稀勢の里。今月9日からの名古屋場所では完全復活をめざす。

稀勢の里 ©佐貫直哉/文藝春秋