昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/02/22

父親のように慕っていた「カゲさん」の死

 翌57年は30本塁打を放ち初の本塁打王を獲得。以後本塁打王8回、打点王7回。唯一の首位打者となった65年にはあの王貞治よりも早く三冠王に輝いている。昭和30年代は南海の黄金時代でリーグ優勝4回、日本一2回。その中心に強打の捕手、野村克也と、絶対的な存在である親分こと鶴岡一人監督がいた。しかし鶴岡南海は1946年から続く超長期政権。監督20年目の65年はリーグ優勝を果たすものの世代交代は避けられず、鶴岡は同年限りで腹心のコーチ、蔭山和夫に後を託し監督の座を降りる。そしてここで悲劇が起こる。蔭山が監督就任4日目に38歳の若さで急死してしまうのだ。

 蔭山は死の間際に「ノムを呼んでくれ」と言い遺すほどノムさんを頼りにしていた。またノムさんも若手時代にご飯を腹一杯食べさせてくれた事、中心選手の中で唯一「カベ」の自分を相手にしてくれた事、自らがいち早く取り組んだ「頭を使う野球」に賛同してくれた事から、蔭山を父親のように慕っていた。蔭山の監督就任に際しては鶴岡派の選手が多い中でただ一人「カゲさんおれやります」と宣言した。そんな中でのまさかの急逝だったのである。

 さらに巡り合わせの悪いことに、蔭山が亡くなったことで鶴岡が再び監督に復帰する。実はノムさんはその直前、鶴岡に辞任を思いとどまらせるべく他の主力選手と共に自宅を尋ねたところ、鶴岡から「三冠王? 笑わせるんじゃない。この中で本当に南海に貢献したのは杉浦(忠)だけや」と貶されているのだ。自分を育ててくれた鶴岡との決別、信頼していた蔭山の死、さらに68年には最愛の母を亡くしている。同時期に重なった不幸が、ノムさんに大きく影を落としたことは容易に想像がつく。もうひとつ付け加えれば、この時期既に前妻との仲は修復不可能になっていたという。そんな中で70年に伊東芳枝(沙知代)と出会うのである。

 1968年に鶴岡が去り、ノムさんは70年に選手兼任で監督に就任する。オーナーから全権委任をとりつけ、作戦コーチに頭脳派のD・ブレイザーを据え、外部からもコーチを招き「シンキング・ベースボール」を前面に打ち出した。さらに積極的に選手を入れ替え、在任8年間に31選手を獲得。有名なのは阪神から獲得後リリーフ転向を説得した江夏豊だが、他にも満塁押し出し四球6の記録を作った大塚徹や代打男の青野修三など、クセ者を何人もベンチに置いた。73年前期優勝時は、前チームで芽の出なかった元巨人の山内新一に松原(福士)明夫、元東映の江本孟紀だけで38勝中29勝を稼いでいる。野村再生工場の始まりだ。また現代では完全にアウトだが、ノムさんは相手のサイン盗みも行っていた。それもこれも、限られた戦力で頭を使って勝ちを拾う、鶴岡とは違った野球を実現するためだった。

 監督業の傍らで、ノムさんは強打の捕手であり続けた。タイトルこそ72年の打点王が最後ながら、73年に王貞治に本塁打数で抜かれるまでは通算本塁打、打点、安打数でノムさんが日本記録保持者だった。40歳を迎えた75年も28本塁打、92打点。そしてこの年、王貞治に続く通算600号本塁打を達成する。しかしその瞬間を見届けた観衆はわずか7千人。前年王貞治が打った600号は3万3千人が見守っていた。今では想像もつかないほどのセパの人気差。忸怩たる思いを抱いていたノムさんは「花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と名言を残すのである。

南海ホークス時代の野村克也氏

優勝目前のチャンスの打席で……現役引退を決めた瞬間

 そんなノムさんは77年9月に監督を解任されてしまう。表向きは沙知代夫人の存在と「公私混同」を理由としながらも、球団首脳はいつしか意のままにならなくなったノムさんを追放したかったのでは、と著者は分析する。南海はこの年16本塁打のノムさんが抜け、抑えの江夏豊、主軸の柏原純一も後を追って退団する事態に発展。さらには頭脳役のブレイザーも去り、チームがガタガタになってしまう。88年限りで消滅した南海ホークスの、最初の綻びは間違いなく野村解任に端を発していた。この本が出たのは事件からまだ4年。個々の証言は生々しく、本書の読みどころの一つである。

 「ボロボロになるまで」一選手に戻ったノムさんはロッテを経て79年に新生西武ライオンズに移籍。出場数こそ減ったものの松沼博久、森繁和ら若手投手陣を巧みに引っ張り、時には試合後半から出場して「セーブ捕手」と呼ばれるようになる。特に80年後期はノムさんのリードが冴え、チームも後期優勝目前に迫った。勝てば優勝マジックかという9月28日の阪急戦、先発出場したノムさんは、福本豊、簑田浩二の俊足コンビに計7盗塁を許してしまう。それでも8回に1点差に迫り、なお1死満塁で打者はノムさん。最低でも犠飛は打てる、と打席に向かおうとした瞬間、根本陸夫監督は代打・鈴木葉留彦を告げるのだ。「オレの評価もこんなところまで落ち込んでいるのか」。45歳のノムさんはこの瞬間に現役引退を決め、西武も優勝争いから脱落していった。

 通算3017試合出場、2901安打、657本塁打の大記録を残しながら「月見草」らしく引退試合も行わず球界を去ったノムさん。評論家になったばかりの81年夏には横浜大洋ホエールズの次期監督候補として名前が挙がるも、まだユニフォームを着る気はないと言い切った。この時期は監督解任で負った深い傷が癒えていなかったのだろう、と著者はその心中を慮る。「六十歳までに生活設計を確立し、六十を過ぎたら高校野球かファームを手掛けてみたい」とまで語ったノムさんがプロ野球に復帰するまでには、それから9年の年月が必要だったのだ。

 他にも1959年に行われた故郷・網野での凱旋パレードや打者への「ささやき」のエピソード、ケガの歴史、鉄腕稲尾和久との攻防、D・スペンサーや長池徳士、大杉勝男らライバルとの本塁打王争いなど、野球選手としての野村克也を堪能できる『月見草の唄』。アマゾンでは文庫版の『球界に咲いた月見草』も含め高値がついているが、〈日本の古本屋〉サイトでも購入可能だ。「ボヤキ」だけではないノムさんの姿をじっくり味わって頂ければ幸いである。

◆ ◆ ◆

※「文春野球コラム ウィンターリーグ2020」実施中。コラムがおもしろいと思ったらオリジナルサイト http://bunshun.jp/articles/36257 でHITボタンを押してください。

この記事の写真(2枚)

HIT!

この記事を応援したい方は上のボールをクリック。詳細はこちらから。

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春野球をフォロー