2月11日に亡くなったノムさんこと野村克也氏。その功績については既に多くの方が書いているが、ノムさんのもうひとつの偉業がたくさんの著書を残したこと。ウイキペディアによると、単行本を後に文庫化したものや共著も含めてその数157冊。21世紀に入ってからは人生論や経営論を説いた著作も増え、ビジネスマンの間にも「ノムラの教え」は浸透していった。ちなみに初の著書は1965年の『うん・どん・こん(運鈍根)』で、某古書店サイトで2万5千円。なかなかお目にかかれない一冊である。

 第三者による「野村本」もたくさん出ている。多くはヤクルト監督で功をなした後に書かれたものだが、例外的に引退直後の1981年に出たのが『月見草の唄 -野村克也物語-』(朝日新聞社)。ノムさんの自著にも半生や現役時代を振り返る記述は見られるものの、同書は著者・長沼石根氏が本人や多くの関係者から証言を得て出生から現役引退までを綴った意外と珍しい内容だ。ここからあまりスポットの当たらない現役時代のノムさんを振り返ってみたい。

『月見草の唄 -野村克也物語-』(朝日新聞社) ©黒田創

無名の球児・野村克也がプロに入るまで

 ノムさんは1935年に京都府網野町(現・京丹後市)で生まれた。父は日中戦争に召集され、わずか半年で病死。母は女手ひとつで一家を支えるも、無理がたたり大病を患ってしまう。ノムさんと兄・嘉明は、母を助けるべく新聞配達に勤しんだ。夏場はアイス売りにも精を出すが、恥ずかしさのあまり客を呼び込めずアイスはどんどん溶けるばかり。みじめな思いをした野村少年は「僕は将来おカネがもうかる仕事をしたい、そしてお母さんに楽をさせるんだ」と作文に書くのである。中学生になるとさらに子守のバイトも始め、卒業後は地場産業である丹後ちりめん職人の家に奉公に出ることになっていたという。

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 中学校ではせめてもの楽しみにと野球部に入部する。ミットやバットはお古を譲り受け、修学旅行の費用は友人の親が工面した。家計はますます困窮を極めていたが、兄の支援もありノムさんは峰山高校に進学を果たす。峰山野球部は弱小だったものの、部長の清水義一が野球の素人だったことで未来への扉が大きく開くのだ。清水は快打を放つノムさんに「プロでやれる」と無謀にも近い期待を抱き、南海ホークスの鶴岡(山本)一人監督に夏の京都府予選を見に来るよう手紙を出す。そして運よくその日に南海が関西滞在中だったため、鶴岡は京都・西京極球場で、無名の球児・野村克也をその目で見ることとなる。  

 同時に、ノムさんもプロ入りを夢見て野球雑誌で捕手層の薄いチームを研究していた。その結果、育成力に定評のあった南海の入団テスト受験を決意。そして鶴岡も野村をテストによこすよう清水に伝えていたのである。南海は人員的に余裕があったことから無事合格。とはいえ事実上ブルペンキャッチャー(カベ)として採用されたようなものだったという。  

 ノムさんは他の誰よりも努力を重ねた。早朝ランニング、居残り遠投特訓、さらには一升瓶に砂を詰めてダンベル替わりにし、当時としては珍しく筋トレも行っていた。それでも1年目のオフに早くもクビを通告され、懇願した末に何とか残留を果たすギリギリの状況だったという。そして翌55年にファームで打率2位となり、翌春のハワイキャンプへの帯同を許されるのだ。  

 他の選手が物見遊山的にハワイで過ごす中、「カベ」から這い上がろうと必死の野村青年は練習試合で好成績を残す。ライバル捕手が門限破りで鶴岡の逆鱗に触れて干されるなど次々と脱落したことも重なり、帰国する頃にはノムさんが一気に正捕手候補に躍り出る。帰国会見で鶴岡は「ハワイで一人だけよくなったのがいる。野村や」と語り、それを知ったノムさんは大いに自信をつけたという。56年は129試合に出場して打率.252、7本塁打、54打点。ついにレギュラーの座を掴み、パのベストナインにも選出された。